三種類の知識

 『バガヴァッド・ギータ』においてグナ(特性、属性)の理論は重要な地位の一つを占めます。それはある種の多様性について述べたものであり、自然を説明する理論でもあると思うのです。グナ(特性、属性)には三つあります。サトワ(純性)、ラジャス(激性)、タマス(鈍性)です。サトワとはたとえば平安・幸福の状態のことで、ラジャスは活動のことで、タマスは怠惰や鈍さのことです。科学では物質は原子の組み合わせでありますが、古来インドでは自然はこの三つの性質と五大元素(空・風・火・水・地)の組み合わせであるとされました。
 
 今日は三種類の知識についてです。
 
 人がその知識により、万物の中に唯一不変の状態を認め、区別されたものの中に区別されないものを認める時、それを純質的な知識と知れ。(18.20)
 また、その知識が万物の中に、各種各様の状態を別個のものと認めるとき、それを激質的な知識と知れ。(18.21)
 また、ある一つの対象に対し、あたかもすべてであるかのように執着する、根拠のない、真理に暗い小知は、暗質的な知識といわれる。(18.22) (以上、岩波文庫版ギータ)
 
 Know that knowledge to be Sattwica, by which is seen in all beings the One Immutable, inseparate in the separate.(18.20)
 But the knowledge which sees in all beings the distinct entities of diverse kinds as different from one another, know that knowledge to be Rajasica(passionate).(18.21)
 While that knowledge which is confined to one single effect, as if it were the whole, without reason, not founded on truth, and trivial, that is declared to be Tamasica.(18.22) (swami paramananda版)
 
 日本語訳も英訳もほぼ同じ意味に思います。
 
 私なりに現代風に解釈すれば、鈍性(暗質的)の知識は、私はほぼのぞくことはないのですが、ある種のSNSの一部やサイトで交換されているような、針小棒大といっていいか、ちょっとした小さなことを取り上げてあたかもそれがすべてであるかのように主張する言説、あるいは最近はやりのフェイクニュースのように根拠がまったくない、そして事実と異なるようなことを主張する人たちの知識がこれにあたるでしょう。
 激性(激質的)の知識は、私は時々聞くのですが、「人は人、自分は自分、価値観はそれぞれであって何が正しいとか間違っているなどということはできない」というような相対主義というのでしょうか、そういう類の知識です。そういう人たちは多様性以外に見ることができないといえます。これも現代ではやっていると思います。
 純性(純質的)な知識は、現代でははやりませんが、普遍的な真理というものがある、そしてそれは糸がネックレスの宝石をつなぐようにすべてを一つにつなげていると見る視覚を獲得した人の知識でしょう。
 
 鈍性の知識は根拠も何もない無知蒙昧というような類のもの。激性の知識は多様性しか見ることのできない知識。純性の知識はそれは現代的な意味での知識というより、それを獲得したものはすべてが一つに見えるような類の、私はそれを真理と呼びますが、そういうものです。
 
 おろらくは人間の性質によってその人の主張する知識は異なるのだと思います。鈍性の食物を摂ってばかりいて性質が鈍性になった人は主に無知に近い知識を語るでしょうし、激性の食物を摂る人は激性の知識をひけらかすでしょう。純性の食物を摂る人は、仮にすぐには真理にたどり着けないにしろ、いつかはすべてが一つだと見える境地に達することができる。そう思われます。
 
 私はわかるのですが、多様性のわなに落ち込んだ人はいったい真理というものにたどり着けるのかと疑問に思うことがあります。真理を思想だと思っている間はそれは今だ激性の知識だと思われます。それ(純性の知識)は自らの存在の実現とでもいうもの、あるいは少なくとも心が平安であって、静かにあらゆるものをバランスよく見ることのできる人の知識とでもいえるでしょう。
 
 インド思想には、単純そうでありながら、ここに書いた三種の知識のように現代の状況を説明するのに適した概念がさらっと提示されています。奥深いと思います。