愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

不確実性を愛する

 誰もがわかっていることですが、人生に確かなことはありません。強いていえば、皆必ず死ぬということくらいです。それ以外のことで確かだといえることは人生にないでしょう。しかし多くの人が不確実な状況を避けます。

 不確実な状況を避け、この先何日も何年も何十年も確かで予測できる人生を歩みたいと願って、文明が発達した面はあります。お金は必ずしも確かな解決を約束しはしませんが、お金を蓄えれば蓄えるほど人生の不安定要因を避けられると考える人はいます。ある程度まではそうかもしれません。あるいは人間関係が自分を守ってくれると思う人もいます。これもある程度まではそうかもしれません。しかしながら、人生の不確実性から完全に逃れることのできる人はいないでしょう。

 1年後に大病をわずらっていないと誰が宣言できるでしょうか? 今後1年間に自然災害にあうことはないと誰が宣言できるでしょうか? 今後1年間に思いもよらない出費に出くわさないと誰が確約できるでしょうか? 誰も未来を見通すことはできません。本来人間には過去と現在しか与えられておらず、未来を見ることはできないような作りになっています。

 かつて私は、未来を予測できないことを不安に感じていたこともあります。短い期間ですが、かなり神経質になったこともあります。しかしながら、いくら心配しても状況が変わることはありません。不確実性は人間存在に固有のものです。ならばそれを愛するしかありません。

 今はわかります。たとえば夜常夜灯のついてない暗闇の中を長い距離歩かなくてはならないとき、数キロの範囲にわたってその暗闇を照らすまばゆい光が必ずしも必要なわけではありません。手に懐中電灯があれば、そう数メートル先が見えさえすれば、何キロもあるいは何十キロも暗闇の中を歩けます。私が人生の不確実性を愛することができるようになったのは、原理的に未来を予測することができないにもかかわらず、ほんの一日あるいは数日くらいの間ならば、何らかの見通しの下安心して日々の活動に携わることができるコツをつかんだからです。それにはわずかばかりでも信仰が必要とされるかもしれません。

 現実的な未来への不安に対処するだけでなく、心の中の暗闇や混乱にでくわしたときもそうでしょう。心が猛嵐のような状況の中でも、何とか努めてわずかばかりでも心の中に平安を保ちさえすれば、それにすがって一日、そして二日と生きていくことができます。心の中にそういう避け所のある人はやはり強いのではないかと思います。たとえば神仏の御名はそういう避け所を心にもたらすのに大いに役立ちます。

 不確実性を愛するとは、海を旅するボートに身を任せているような感じです。海を覆いつくす筏(いかだ)は必要ありません。ボートは人をどこに連れて行くのか分からないようでありながら、しかし、実際は恩寵という海流に運ばれて目的地へと私たちを運んでくれているのかもしれません。へんな小細工をして勝手にどこかを目指すよりも、恩寵を信じることのほうがより良い未来が待っている、最近そう思います。