愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

3種類の奉仕

 私が師の教えの中で、最初に関心をひかれそして今でも最も関心をもっているものは奉仕だといえるでしょう。英語では奉仕をserviceといいます。サンスクリット語ではsevaで、sevaという言葉は東にわたって世話という言葉になり、西にわたってserviceという言葉になりました。奉仕は深い意味、さまざまな意味をたたえた言葉ですが、今考えるのはいわゆる社会奉仕つまり社会への奉仕のことです。

 生活に支障のない範囲で、できる限り社会奉仕の機会を求めてきて、量的にはそれほどのことはないのですが、これまでにさまざまな奉仕に関わってきました。ここに載せたことがあるかどうか覚えていませんが、震災や水害の際に現地に足を運んだこともあります。ホームレスの方と接することもありました(今でも僅かですがあります)。しかしながら、奉仕の機会を求めても、いつもいつも継続的にその機会が与えられるわけではないと最近は思うこともあります。それは生活に支障のない範囲という限定をつけるからなのですが。

 体を用いた継続的な社会奉仕の他に、最近は身の回りの人に対して優しく愛を込めて話すことも奉仕と考えていいのかもしれない、と受け止めるようになりました。私にとってはそれは社会常識の範囲で、ことさら奉仕と思ってこなかったわけで、その受け取り方が変化したわけです。それだけでなく、体を用いた行為でもなく、言葉による関わりでもなく、愛の気持ちを身近な人に黙って注ぐことですら奉仕かもしれないと思うようになりました。体を用いた奉仕の機会が思うように得られないことによる苦し紛れの認識の転換だといえそうです。

 体を用いた行為としての奉仕、言葉を用いた関わり、思いで人を包むこと。かつてからどれも大切だと思っていたのですが、その3つを自分の中で奉仕に格上げすることになりました。

 たとえば私は歯科に通っているのですが、口を開けて歯を削られていながら、処置をしてくださる歯科医師や歯科衛生士の方たちを愛の思いで包むようにしています。意識はついつい歯の方に向かいますからけっこう大変ではあります。言葉にもできるだけ気をつけています。一緒にいて自然にイライラしてくる人のそばにいると言葉も荒れがちなので、必要のない人とはできるだけ距離をとって、言葉のレベルを保つようにしています。関わりを避けられない場合は言葉を少なくするようにしています。

 2ヶ月ほど前だったか犠牲について書きましたが、私にとって奉仕と犠牲は近い概念で、むしろ犠牲は奉仕の概念を少しばかり拡大したものと受け止めています。奉仕に携わることができないときは犠牲を払うように努めています。

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 ところでヤフーブログサービスが今年末を待たずに終了することになりました。私はこれまでここで書いてきたことを他のブログサービスに移行させるつもりでおり、移行先の候補として4つのブログサービスがありますが、今のところ「はてなブログ」を考えています。単純にブログの様式が自分の好みだからです。しかしながら、実際に移行するまでに再度しっかりと検討し直すつもりです。一応「はてなブログ」は7月上旬から移行可能なようで、少なくともそれまではここにこれまで通り書くつもりです。

 ヤフーブログではいろいろな方々とのつながりをもつことができて、それなりに思い出深いのですが、ヤフーがブログサービスを打ち切ることに対して個人では何ともし難く、きたる移行を期に心機一転のつもりでいます。これまで読んで下さった方々や私が読んできた方々との関係すべてが引き継がれるわけではないでしょうが、もし引き継げるものがあれば引き継ぎ、そして新たな場で新たな出会いを期待したいと思っているところです。