言語は社会の窓

 とっている新聞の今日のコラムに次のような言葉がありました。
 「生まれてはじめて人間あつかいされました。」
 これは小学校もろくに通えず読み書きのできないまま大きくなった方が、夜間中学に通い字を覚え、そして書いた言葉です。読み書きができなくても会話だけで意思疎通はできるのでしょうが、現代日本で字の読み書きができないことは、人間の尊厳を保ち難いほどの困難であるのでしょう。
 
 常用漢字を一通り読み書きでき、またある程度訓練を重ねて読みたい本や雑誌、新聞などが読めるということは、それを書いた人とその書いた人のおかれた社会背景に触れるということを意味します。遠方にいて、生きる時代も異なる人とコミュニケーションが取れるということは、考えて見れば非常に貴重なことです。日本社会で生きるならば、日本語が話せるだけでなく読み書きができることは必須といっていいような技能です。
 
 ある種の専門領域の本を読むということは、特定の世界の一端に触れ垣間見るということ。それは社会を見る窓といえます。
 
 同様に、外国語についても同じことがいえます。堪能とはいえないまでも私は何とか英語が読み書きでき、それを読み書きできない人に比べたら、世界中の情報へのアクセスの度合いは異なります。関心のあるサイトにいって情報に触れることは、やはり世界の一端に触れること。また単に情報を取るだけでなく、意志疎通のコミュニケーションも可能です。マイクロソフト社のソフト名がウィンドウズ(窓の複数形)というのは非常に示唆に富んでいます。
 
 数学も実は同じような窓の一種です。それによって物理理論や経済理論は組み立てられており、専門家はそれによってできた「窓」を通じて自然現象や社会現象を見ています。
 
 はたまた広大なインターネット空間を見たり利用するためのソフトウェアやアプリを構成するのはプログラムといわれますが、プログラムを読み書きできない人はインターネット空間を感覚したり操作することができません。プログラムを読み書きできる人は、自由自在にその世界を闊歩しているようなものです。プログラマーはインターネット空間を見る目や窓を備えています。
 
 貨幣(お金)も同じような窓といえるでしょう。家計簿や会社の帳簿で経理の状況が見えます。お金がたくさんあれば事業を起こすことができるでしょうし、あるいは必要なものを買い揃えることで自分の身の回りの世界を変えることもできます。それのあるなしによって世界が違ってきます。
 
 言語の重要性・基本性は年をとっても減ることはないので、若いころにそれらを身につけることは理にかなっています。窓のない家に住むよりも、窓がたくさんある家に住むほうが外の景色を楽しめます。母語、外国語、数学、プログラム言語、さらには貨幣について少しでも理解が深まると人生の楽しみは増します。それらは人間にとってのある種の現実を作り出します。