教育に関心があって、本を一冊手に取りました。それは法隆寺の宮大工西岡常一氏の唯一の内弟子である小川三夫氏の本『棟梁』です。彼は飛鳥天平時代の建築を見て彼らと会話ができる弟子、そして自分たちが今作っている多くの寺院や神社拝殿を解体修理するであろう数百年後の宮大工と会話することのできる弟子を多く育ててきた方です。久しぶりに面白い本に出会いました。
私はかつて体調不良の際に野口晴哉先生が作られた整体協会に通ったことがあります。その当時見た会報誌に書いてあったのですが、野口晴哉先生のお子さんである通称ダン先生(お名前を忘れてしまいました)が「文化とは体の感覚のことです」といっていました。穢れ、晴れ、忌みなどは日本人にはわかるのですが、他の国の人にはわかりにくいものもあります。朝鮮半島では、恨などという言葉が用いられます。キリスト教徒の言う罪も日本人の考えるものとは少し違ったものでしょうし、そういうものが文化によって異なるとおっしゃっていたように記憶しています。また日本人は職業によって体の使い方が独特で体を通して文化が立ち現れてくるというようなことを学びました。何が言いたいかというと、体が大切だということです。ここでは肉体のみというより、肉体を動かす目に見えないエネルギーを含めて広い意味での体の感覚です。
小川氏の寺社建築会社では、小川氏と弟子たちが寝食を共にして過ごしてきたそうです。共に暮らさないと弟子のことがわからないと言います。共に暮らし、共に仕事をすることで弟子の特徴や、長所、欠点、時々の健康状態などがわかるといいます。そういうふうに弟子を理解した上でなければ、弟子に適切な指示を出すことはできないし、弟子を育てることもできないとおっしゃっています。それは、かつてこのブログで書いたことがありますが、一体性です。自分の肉体感覚を越えた人と人とが一つであるという感覚です。
この肉体だけではなく、実在を通じて一つであるという感覚、これはよく言われる空気というものではありませんが、こういうつながり=一体性があってこそ、初めて言葉を発することができ、言葉が意味をもつのではないかと本を読みながら思いました。小川氏の指示、育成は的確だったのですから。私たちは一つという感覚、小川氏は弟子たちとの間にこれを育んできました。
現代人は教育過程において、自分の考えをもちなさい、よく考えなさい、そして話しなさいと言われます。しかしそうすると、よく考えて話したもの同士は、お互いの立場を想像を通じて理解することはできても、ときに意見の対立が大きくなって争ったり、私は私、あなたはあなたというような突き放した態度に陥ることになります。そこでは言葉が人と人とを結びつけていません。
心の通じあった親子や配偶者あるいは友人の間では、言葉が穏やかな感情を伴って活きたものとなります。それは言葉を通わせる土台がしっかりしているが故だと思うのです。言葉を探す以前に一体性を育む努力をすれば、言葉が無駄になることはありません。一体性があれば、そこで用いられる言葉がどんなに簡単、単純であっても多くの意味内容を伝えることができます。思考から生まれた言葉の過剰は人間関係を阻害しさえします。一体性があれば、思考に人間関係をゆだねるのではなく、ハートからの言葉に人間関係をゆだねることができます。
同様に、言葉だけでなく、お金も一体性、家庭内での一体性、社会での一体性、会社内での一体性があってこそ、初めて適切でふさわしい使い方が見えてくるように思います。
小川氏の本には次の言葉があります。「体ができるということは、頭もできるということだ」
体ができさえすれば、思考はそれに従います。体を動かし行為することで思考が調整されます。これは大切なことだと思います。今人はさまざまな情報の影響の中でさまざまな思いを育んでいますが、そこに平安を感じていません。思考が自らに従うようにならなければ、そして言葉が体に根ざしたものにならなければ、安定した生活を営むことはできないと思うのです。