愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

執着

 霊性の道の障害となるものはたくさんありますが、主な2つを上げろといわれれば、一つは「私me」というエゴと「私のものmine」という執着になると思います。エゴとは自分を肉体と同一視したときに生じる「私が、私に、私を」という感覚であり、執着も肉体の関係の周辺にある「私のもの、私の人」という感覚です。もしこの2つを克服出来たなら、その人は完全に自由であることでしょう。

 私は過去この2つのうち特にエゴを取り除こうとしてきましたが、最近は執着について自覚することが多くなりました。一つはあまり必要でないものを欲しがること、もう一つは身近にいる人への特別な感情です。

 どうしても必要なものはそろえなければなりませんが、一回使っただけであとは何年もタンスの肥やしになっているようなものがあります。そういうものは本当には必要なかったものなのでしょうが、それがあると生活に彩りが出るなどの思いに駆られて買ったものです。もう何年も使っていないものはここ数年間で時間をかけて処分してきました。生活も凝ったものにする必要がないので、今自分の身の回りにあるのは、本棚一つと、押入れ一畳分の荷物にまで減らしました。ものを捨てる際に感じた後ろ髪を引かれるような感覚こそ執着だったのだと思いますが、捨てた後になってみると、それがなくても何の不自由もありません。

 ものは簡単に処分できますが、私にとってより大きな執着は人への執着です。私はたくさんの人に執着することはありませんが、一旦ある人に執着するとそれが尾を引くことがあります。身近な人の例でいえば母でしょう。もう年をとって自分が自立しているつもりであっても、母の肉体がなくなるととても悲しかったのを覚えています。母の霊はどこかにいてどこかに存在しているのでしょうが、それが感覚できないので肉体への執着のようなものは今は減りました。

 あとは甥への執着です。親から離れて今私と暮らしています。私には子がいないので、何か伝えられることがあれば彼に教えたり、伝えたりしています。DNAを保存するのとは違いますが、何か自分の保ってきた価値を伝えるという点に於いて彼には少し特別な感情を持っているのだと自覚することがあります。以前、あるいは共に暮らしだして最初の頃はそうではなかったのですが、時が経つにつれてそういうものが育まれてきます。これも執着です。

 この世界は大きな一つのドラマだといいます。小さな家庭だけで演じられるドラマでもなく、職場だけで演じられるドラマでもなく、学校だけで演じられるドラマでもありません。人はさまざまな場に関わり、それぞれの場で独特のドラマが演じられ、一人の人がさまざまな人と人間関係をもつことで、そのドラマは世界中に広がっています。私もいくつかの人間関係があり、ふれあう人が異なります。私の触れ合う人にはそれぞれの家庭や交友関係があり、私の知らないところでそれは広がっています。私の甥についても同じです。彼にとっては実の親や姉妹もいて、学校での交友関係もあり、年を取れば職場や他の知人・友人との関係が広がっていきます。彼と私が演じる、同じ家の内でのドラマは広大な世界に広がるドラマのほんの小さな一エピソードなのですが、ついつい執着を育んでしまいます。神様から見れば、きっと滑稽なことでしょう。神様は甥を人生のあらゆる面で見守っていてくださることでしょうから。

 この人生においてある人と親しい関係にあるとしても、過去生においてはまた別の存在との関係があったはずです。多くの過去生を経ていく中で、多くの人と出会い別れてきました。すべては流れ行くものだと理解していたならば、執着を育む必要などはないはずなのに、愚かにも肉体的なつながりにこだわってしまいます。

 舞台の俳優が役柄上の関係にこだわることが無いように、この世での役割にもそうこだわる必要はないのでしょう。俳優が演技を立派にこなすような態度で、日常生活の役割を果たしていれば、この世の舞台から退いたとき、つまり肉体を離れたとき、一つの満足があるように思うのです。