愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

真実の探求

悟った人にはすべてが神であり、すべてが真実です。善も悪もありません。至福に浸りきった人は何も違いが見えないと言われます。そのような人は確かにこの世にいるでしょうが、私などはまだそれがどのような境地なのかわかりません。

 すべてが神だといわれています。着ているものも、食べ物も、家も、木も、風も、目の前にいる人も…。心も神で、善も神、悪も神。もとより自分自身も神。そしてこの世界で起こっていることはすべてがよいことだといわれます。

 しかしながら、帽子やベストやベルト、靴がすべて革でできているとしても、靴を頭に載せる人はどこかおかしいですし、ベルトを足にまく人もどこかおかしいです。この世のものがすべて神であっても、この世で生きていくうえでは識別が欠かせません。

 見るものすべてが真実であるとき、真実の探求とはどのようなものでしょうか? 目は一つですが、それは多くのものを見ます。母も見ます。妻も見ます。娘も見ます。友人も見ます。近所の人や職場の人も見ます。しかしながら、母を見るときの感情と、妻を見るときの感情と、娘を見るときの感情は異なります。目は一つですが、感情はさまざまです。見る人はいつも同一ですが、見えるものに対する心のありようはさまざまです。真実とは見るもののことです。そして見るもの=自分がさまざまな感情をもって役割を果たします。

 真実の探求とは、この見る者の自覚ではないかと思います。また見えるものに対して抱く感情を理解することも含まれると思います。感情はさまざまでも見る者は一つです。この世で真実と言えるものは真の自己です。目に見えるこの世は相対的な真実です。感情は相対的なものに従って変化します。それが私の現在の実感です。

 何が本当で何が本当ではないかに迷う人もいると思います。
 すべてが真実ではありますが、まだこの世界に感情を動かされることもある私は少なくともいつも自分が真実でありたいと心がけています。そしてこの世が相対的なものであることを忘れないようにしています。