愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

真理と真実

 

先週はニュートンアインシュタインを取り上げて科学的認識について触れましたが、それに関連して真理と真実に関して今日は少し書いておきます。真理と真実といっても私の語感に因る部分が多く、単なる文学的な議論に過ぎないという指摘もされそうですが、私の受け取り方を参考に各人が考えるきっかけにすればそれでいいと思っています。

 

私にとって真理とは時間や空間、人によって変わることのないものです。あるいは存在と現象とを考えた際、存在は真理で現象は来ては去るものであるということもできるかもしれません。これに対して、あくまでも私の感じ方ですが、真実は一時期、一地域、一分野において妥当だと認められた正しさのようなものです。先週述べたカントの認識論は真実を扱っていると私は受け取っています。なぜならば一般に科学理論は時間が経てば新たな理論で置き換えられてきましたし、科学以外のさまざまな見解に関してもほぼすべてが時の流れの中でその妥当性を失ってきた面があるからです。真理と真実は言葉は似ていますが、実はかなり隔たりのある概念なのかもしれません。

 

次のような話があります。
「クリシュナに近づいて、目の前に自分のすべての傑作、すべての称号、メダルやトロフィーを並べた、ある有名な画家がいました。その画家はクリシュナの肖像画を描くことを申し出て、それは快く承諾されました。しかし、その絵を見た人たちは、絵の中でポーズをとって座っているクリシュナはどこか違っていると思いました。その画家は、ありがたくもさらに何度か肖像画を描く機会を与えられましたが、その度に絵はどこかがおかしかったのです。なぜなら、誰もが認める御姿は、ポーズをとっているクリシュナの姿ではなかったからです。芸術家のプライドは完全にへし折られ、その画家は恥ずかしさのあまり頭を垂れ、すっかり恥をかかされたその都を後にしました。都の郊外でその画家を見かけたナーラダ仙は、画家の窮状のわけを聞くと、こう言いました。「主は多くの御姿を持っている。実に、すべての姿は神の姿だ。だから、神に一つの姿を定めることはできないし、神を描こうとしても上手くいかない。私がそなたにどうしたらいいか助言しよう」そして、その画家を自分の脇に来させました。
翌日、画家は、額に入れた大きな「絵」を白い布で包み、それを王宮に持って行きました。クリシュナは画家に布を取るようにと言いました。画家が布を取りはらうと、そこにあったのは鏡でした。「主よ、あなたには無数の御姿がおありです。この絵の中では、すべての御姿が、明瞭に、瞬時に描かれます」と画家は言いました。あなたのハートを清めてきれいな鏡にしなさい。そうすれば、そこに主の栄光が映るでしょう。(1966年3月17日サイババ)」

 

たとえとすれば、画家の絵は科学を含めさまざま人のさまざまな理論や見解のことです。それは真理=クリシュナの姿とはいつも少しばかり異なります。一般に人の見解は科学を含めある種のメガネを通して世界を見ているようなものです。それはいつも少しばかり真理と異なっています。一方画家の絵ではなく鏡は常に真理=クリシュナのすべての姿を示します。それはただ映しています。上の話では清らかなハートが真理を映し出す鏡です。画家の絵は科学で、一方清らかなハートは霊性です。

 

科学は真実に関することですが、霊性は真理に関することです。何かを対象として限定し理解しようとする時、それはいつも真実ではあっても真理ではありません。科学はanalyze(分析)し、霊性はrealize(実現)するといいます(サイババ)。それが真実と真理の違いでしょう。思考(頭)に関するものは真実で、ハートに関することはより真理に関わるといえるかもしれません。真実は演繹と帰納によって到達できるでしょうが、真理は犠牲=これではない、これではないという探求=浄化によって到達できそうです。

 

余分な話になりますが、真理と真実の他に事実というものがあります。起こったことのことです。事実は時間の経過とともに人の記憶によって容易に書き換えられるものですから、事実は意外に確定が難しいのですが、それについて触れるのは今はやめておきましょう。私は真理にも真実にも事実にも等しく関心はあります。一般に本当のことを語るというのは事実を語るということに近いですし、それを含めてtruth(真理、真実)という価値に可能な限り忠実でありたいと努めています。