インド2

 前回に続いてインドに関して聞いたこと(そしてそれについて思ったこと)を書いておきます。前回同様現在のインドの世相一般についてというよりは、むしろインド社会の底流を流れる原理原則のようなものについてです。
 
 「もし世界を一つの体にたとえるとするならば、インドは眼にあたります」

 それぞれの国にはそれぞれ独特の国柄というか特徴があって、それらがお互いに補い合いながら世界はうまく機能するはずなのですが、インドは世界の中で眼の役割を果たしているとされます。つまり最も真理を見つめている国であるということです。最も正しく世界を見ている国だということです。
 
 インド由来の宗教である仏教の御教えに正見というものがあります。これは八正道の最初に来るものです。分かりやすくいえば正しいものの見方という意味です。しかしながら、人と話していてもそうですし、ニュースやSNS上の意見を聞いていてもそうですが、人のものの見方というのはさまざまで、何が正しい見方といえるのかほとんどわからない状態の人が多いはず。もし自分こそが正しいと強固に主張する人がいれば、かえって胡散(うさん)臭く思われるほどです。
 
 しかし私は正しいものの見方(正見)はあると思っています。それはたとえていうならば『裸眼』でものを見ることです。そうです、人はさまざまなものの見方をしていますが、それらはすべて色眼鏡をかけているだけのことです。科学における理論(万有引力の法則や量子力学の見解などなど)もみな色眼鏡です。自分で思い描いたものを理論付けたところの認識はすべてそうです。正見とはむしろそれらの色眼鏡をはずしたときに見えてくるもののこと。
 
 インドでは何かことを始める際には神様にお祈りを捧げてから取り掛かります。神様のご意志や恩寵がなければ物事はまったく進むことはないと理解しているからです。たとえば人と会ったときはその人に対して手を合わせてから話を始め、たとえば車を運転する人はハンドルに手を合わせてから運転し、たとえば楽器を演奏する際には楽器に手を合わせてから演奏を始めます。インドには33億の神様がいらっしゃるようですが、木も神なら水も神、アリも神ならヘビも神、親も神なら来客も神です。敬虔な人は四六時中神様ばかりを目にしています。ヘビが自分を襲ってこようと、客が怒鳴り込んでこようと、(多少は考えはしても)基本的にすべてはいいことであり、神様のありようと受け止めます。ただ神様があるだけであって、その神様との間に感情の交流があります。
 
 どうでしょう? こういうものの見方はすばらしいでしょうか、それとも愚かしいでしょうか?
 
 かつてアインシュタインが思索にふけっていたとき、目の前にふと虫が飛んできました。彼はそれを見て「アラーは偉大なり」とつぶやいたそうです。頭の中は認識にいそしんでいたのかもしれませんが、彼の眼は神を見ていたのです。インド人が世界に神を見るのと同じです。
 
 世界を見るときに神様だけが見えるならば、その人は正見(正しいものの見方)を備えています。神様が見えないならば、インド人がいうところのマーヤー(幻想、迷妄)に意識がとらわれています。
 
 以上のような意味において、インド人は他国の人と比べてものを正しく見ることができているとされるのでしょう。
 
 目の前に花があるとしましょう。その色と香は神の美です。風に花が揺らぐ様は妙なる音楽です。
 しかしそれだけではありません。現代の賢者はそれに加えて、花から科学や道徳も学びます。葉を調べ、根を調べ、茎を調べ、それらと花の関係を調べ、神秘や教訓を引き出します。子ども心をもつ人が神なる自然との対話の中で心に生じた驚きやそれに伴う疑問は一見単純なようでいて、世界中の専門家1000人がその答えを知らない可能性はかなり高いものです。その疑問は本人の真の納得をもって解決するといえるのですが、書物の中にその答えが書かれている保証はまったくありません。真にものを見ているならば、このような驚きと疑問が心にきざすことはしばしばです。
 
 私たちはものを裸眼で見ることを再開しなければなりません。見えるものはすべて神の秘密の啓示なのでしょうから。