愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

あやつり人形の糸

 霊性における最高の真理によると、この世には神しか存在せず、人間というものは存在しないそうです。ただ一者のみが過去も現在も未来も存在し続けるだけで、私たちが外界に見る多様性は幻に過ぎないとのこと。何億という人間たちの日々の生活は、唯一存在する神様が人形を作り一人で糸を操り楽しんでいる芝居だといいます。

 そう、人間の行動はすべて神様が糸を引いているだけのこと。

 かつて2年半ほど前に「真実の探求」という記事を書きました。そこからの引用です。
 「見るものすべてが真実であるとき、真実の探求とはどのようなものでしょうか? 目は一つですが、それは多くのものを見ます。母も見ます。妻も見ます。娘も見ます。友人も見ます。近所の人や職場の人も見ます。しかしながら、母を見るときの感情と、妻を見るときの感情と、娘を見るときの感情は異なります。目は一つですが、感情はさまざまです。見る人はいつも同一ですが、見えるものに対する心のありようはさまざまです。真実とは見るもののことです。そして見るもの=自分がさまざまな感情をもって役割を果たします。」

 最近ある本を読んでいると、「自分があやつり人形であることを知るにはどうすればいいのか」という問いに対して、「感情の背後を観察して見なさい」との答えがありました。人間に感情はつきもので、私もそうですが、感情に動かされて行動することが人にはあります。人間を操る神様のあやつる糸はその感情の背後にあるとのことです。

 スピノザという西洋の哲学者がいます。私は彼の本を読んだことがないのですが、彼のことを解説する本の中に次のような記述がありました。
 「われわれが情念というものに、つまり怒りとか悲しみとかに囚われたときに、デカルトであればその情念を意志によって、克服しようとする、ところがスピノザは、そういう理性とか意志によって情念あるいは感情を克服することはできない、というのです。ただ、怒りにかられたときに、なぜ自分が怒っているのかを考えることはできる。むろん、その怒りの原因をたとえ完全に突きとめたとしても、怒りから自由になるわけではない、あるいは悲しみや恐怖から自由になるわけではない。」(柄谷行人スピノザの無限」)
 
 そしてまだ読み込んでいないのですが、知性において重要なのはそのように感情の背後にあるものをとらえる能力だとのことです。

 私は今年の目標の一つに、寝る前にその日一日の行動の動機を振り返ることをあげましたが、おそらく自らの行動の動機を振り返る作業は、突き詰めていけば、神が私たちを操る糸を理解することにつながるように思います。

 私たちが神があやつるその糸を知ることで、私たちはどの方向を向かい、どのような活動に携わって生きていけばいいのか少しずつ見えてくるような気がします。