愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

カルマと信愛

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Paris Vara


 何回か書いたことがありますが、私は行為(カルマ)の結果を味わわなくてはならないということを信じています。人が行う行為は単純に善い・悪いと区別できるものではなく、善くも悪くもないものがあったり、善悪が交じり合っているものもあります。しかし、どのような行為であれ、その行為の結果を引き受けなくてはなりません。

 人間はこの世で何でも好きなことができます。自由があります。したことの結果を味わうという条件付きでです。その結果はボールを壁にぶつけたら返ってくるというように、すぐにわかるものではありません。それは時を越えて結果が過不足なく返ってきます。知らず知らずに、あるいは何も考えずに物事を行った場合も結果が返ってきますが、人を傷つけてしまった場合などには、その結果を避けたく思うものです。

 行為の結果を必ず味わわなくてはならないのに、なぜ信仰をもたなくてはならないのか、信愛(=帰依)を培わなくてはならないのかと疑問をもった人がいます。私も以前には似たようなことを感じていました。

 信愛(=帰依)とは何でしょうか? 人それぞれ考えがあるでしょうが、私の信愛(=帰依)の定義は、「神へと絶えず流れ続ける愛」です。私はこの世の何者も頼りにならないという体験をしたので、ある時期から神だけを頼りに生きてきました。神への愛の出発点はまず何よりも神を意識すること、神に対面することです。罵倒であれ、親しみであれ、神へ向けられるものはすべて愛であると今では思いますが、抜き差しならぬ状態で神と向き合うことが神への愛を育んできました。

 神への愛=信愛は人を神に近づけます。神を思うだけで神に近づきます。神をけなしても、神に愚痴を語り続けても神に近づきます。このことが人間を高め強くします。行為の結果は変わりませんが、強くなった私たちは行為の結果に容易に耐えることができるようになります。

 行為の結果を味わったときにどのように振舞うかということも大切です。そこから必ず学ぶことができます。行為の結果に囚われてしまうことは、信愛の道を歩む上で障害となります。「神への愛=人生を歩み続ける意志」があれば、何とでも「人生=行為の結果で構成されるもの」を乗り越えることができます。

 喜ばしいこと、うれしいことがあろうと、苦しいこと、悲しいことがあろうと、人生の一つ一つの出来事を乗り越えていく力や人生の一歩一歩を促す力、それが信愛=帰依によって与えられます。