私が知らないだけなのでしょうが、エートスについて述べている日本語の資料に触れることがほとんどできず、今日はエートスについて再び書きますが、あくまでも私の大雑把な受け取りを記すことになります。エートスについて述べたくなったのです。
エートスについては一度だけ書いたことがありますが、それは語源的には倫理や道徳に近い意味をもつ言葉です。人を観察したときに「ああ、この人はこういう人だな」というのを多少なりとも感覚することができますが、態度を含めたそういう人のありようのことです。その人が信頼できるかできないか何となくわかりますし、人とコミュニケーションをとるにはまず相手が信頼に足る人でないとうまくいきません。
エートス、パトス、ロゴスは三組で、人とコミュニケーションをとるにはこれらが必要だというのがギリシャ哲学の教えるところです。エートスつまりその人の人格や態度のありようが出発点です。そして人と人はパトス=感情によってコミュニケーションのチャンネルを作ります。そして互いに何かを伝え合うときに必要なのがロゴス=論理です。伝えたいことが明晰さ=論理的正しさを伴ったときに了解されるというわけです。
他人のことはよくわかっても自分のことがよくわからないことがあります。自らのエートスはどう理解されるでしょうか?自分のことは自分が最も知っているようであり、しかし他人のほうがよく知っている部分があることは一面の真理です。自分にしか知らない自分の心の内を他人が知らないことも多々あります。自らのエートスとは、自らが統合されているその最奥の基盤、自分で可能な限りの自己理解であるような気がするのですが、この定義ですと、自己探求によって自己理解が深まると、エートスにも違いが生じてきます。感情や論理のありようが変化することを考えれば、エートスに変化が生じても問題ないといえば問題はありません。
人間の存在のありようは、その人の所属する社会の強い影響を受けがちです。社会に適応する形で人間というものは形成されますから、エートスというものには社会的特性があります。特定のエートスが社会一般に見受けられるとされるのはこのためです。さらには人のエートスを導くその社会の文化の原理がエートスであるとの理解もあるようです。国民性や地域性というものがありますが、例えば子供が幼い頃に行われるしつけや学校教育のありようが些細でも人の振る舞いに影響を与えます。家庭でのしつけや学校教育は国や家庭・地域の文化によって異なりますから、エートス=人の基本的な行動パターンは文化原理の違いによって異なります。