アートマの探求(スピーチ原稿)

 かつて(4年ほど前)人前で真の自己(アートマ)の探求に関して話をしたことがあります。手元にあるその時の原稿を、要旨はそのままに少し手を加えたものが以下の文章です。何かの参考になれば幸いです。

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 今日は、真の自己、ハートに関して私が探求してきたことをお話ししたいと思います。真の自己は、アートマともいわれますので、アートマの探求といってもいいかと思います。
 真の自己を探究して自己実現に達した方にラマナマハリシがいます。彼は周囲の人に真の自己を探究しなさいといつも勧めていたようです。「これは私のハンカチです」というとき、私とハンカチは別物です。同様に、私の体、私の心、私の知性というとき、私と体、心、知性などは別物です。このように、「ネティ、ネティ、これではない、これではない」というふうに自己を探究しなさいと聖者方はおっしゃいます。
 さて、このように自己を探求していくとどうなるでしょうか。しばらく前のことですが、私はあるカウンセラーの本を読んだことがあります。そこには、現代の若者の自分探しについて述べられていました。真の自分を突き詰めて探求していくのは、あたかも玉ねぎの中心を探すようなものですと書かれていました。自分でないものを、これではない、これではないと1枚1枚皮を向いていくと、結局何も残らないのです。仏教では諸法無我と言いますが、仏教徒は真の自己を探究した結果を無といいました。しかしおそらく、不ニ一元論者は、それを無とは言わずにアートマと呼ぶでしょう。スワミは、私たちをいつも「愛の化身である皆さん」と呼んでくださいましたが、無と呼ばれるもの、アートマと呼ばれるものは愛と呼ぶこともできるでしょう。
 これに関連して面白い話があります。『日本の弓術』という本に書かれているエピソードです。それをそのまま読みます。
(以下引用)
 「あなたは無心になることを、矢がひとりでに離れるまで待っていることを、学ばなければならない」と先生は言われた。私は「しかしそれを待っていると、いつまでたっても矢は放たれません。私は弓を力の続く間張っています。そうしてしまいには、まったく意識的に矢を放してやらなければ、張った弓に両腕を引き寄せられて、矢はまったく放たれるに至りません」とお答えした。すると先生は「待たなければならないといったのは、なるほど誤解をまねく言い方であった。本当を言えば、あなたは全然何事をも、待っても考えても感じても欲してもいけないのである。術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。あなたがまったく無になるということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる」と答えられた。
 私が弓術を習得しようと考えた本来の問題に、先生はここでとうとう触れるにいたったが、私はそれでまだ満足しなかった。そこで私は、「無になってしまわなければならないと言われるが、それでは誰が射るのですか」と尋ねた。すると先生の答えはこうである。―「あなたの代わりに誰が射るかがわかるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。経験してからでなければ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきであろうか。仏陀が射るのだと言おうか。」(引用終わり)
 このように述べられています。私はこれが、真の自己の体験であるように思われます。阿波師範という方も、このような体験が弓の目的であるというように書かれています。
 しかし、ただこの話を聴くだけでは、人は観念的な理解に留まるかもしれません。実際に人はこの「私」を体得しなくてはなりません。スワミは、ラマナマハリシ流の自己探求は瞑想と組み合わされた時に効果が現れるとおっしゃっています。
 そこで手掛かりとして、光明瞑想について考えてみます。(光明瞑想の説明)
 私は最初光明瞑想を知ってそれを行おうとしたとき、なかなか光が眉間から頭の中を通って胸に降りていきませんでした。また、胸を光で満たし、そこで蓮華の花を咲かせようとしますが、しばしばその花びらが、あっちの方向、こっちの方向へと飛んでいき、花の形を取ってくれないということも長い間経験してきました。戸惑いながらこういう時期を過ごしてきましたが、しかし、次第にこの私の胸のうち、ハートにあるこの大きな力を受け入れるようになりました。今では、この力をアートマのシャクティ(力)というふうに理解しています。人によっては、それを愛の泉と呼ぶこともできるでしょう。あるいはスワミは私たちをときに神性火花の化身である皆さんと呼ばれることもありましたが、まさにこれは神性の火花とでも呼ぶべきものであると思われます。瞑想を扱っているナーラーヤナスークタムのなかには「タスヤマドエーマハーナグニルヴィシヴァールチルヴィシヴァトームカハ(そのハートの内部の空間には、あらゆるところを向いたたくさんの顔をもった、四方八方に燃え盛る大きな火炎が宿ります)」とありますが、このことを意味しているのではないかと思っています。スワミは「よく聞きなさい。私はあらゆる個々の存在の蓮華の心の中にいる内なるアートマです」といわれますが、この火花の中心にスワミはいらっしゃるのでしょう。
 さて、スワミは以前質問をされたことがあります。それは「すべての機械(マシーン)を作ることのできる機械がこの世界にただ一つ存在します。それは何でしょう」というものです。皆さんは何だと思われますか。そう、それは人間の体です。
 さて、それでは次の質問です。この世にはいろいろさまざまな原理があります。個別の学問は、それぞれいくつかの原理を理論化したものですし、宗教も特定の原理に基づいて絶対者への道を示すものです。この世にはこのように多くの原理がありますが、それらすべての原理を生み出すことのできる原理がただ一つこの世に存在します。それは何でしょうか。スワミがこのような質問を出したかどうかはわかりませんが、私はこれこそがアートマつまり真の自己の原理だと思います。スワミは教師たちの教師であるように、アートマ原理はすべての原理の母なのです。
 ウパニシャッドに面白い話があります。ある優れたグルに子どもがいました。しかし、親子であると適切な指導ができないため、そのグルは自分の子どもを別のグルのもとに出しました。その子は優秀であったので何年かのちすべての知識を身に付けて親のもとに帰ってきました。しかし、その子はあまりに優秀であったためその子の中には自惚れが芽生えていました。親はそれに気づきました。親は子どもに教訓を与えるために、次のように尋ねました。「おまえは、それを知るとすべてを知ることのできる知識を身に付けたか?」。子はそれを聞いて答えることができなかったので、プライドが傷つけられました。
 さて、その、それを知るとすべてを知ることのできる知識とは何でしょう。それがアートマの知識であると思うのです。アートマの知識さえあれば、あとは知性と識別の働きによって、すべての物事の本質をとらえることができるようになるでしょう。
 教育の目的の一つに、このアートマの知識を身に付けさせるということがあると思います。このアートマの知識を子どもに身に付けさせるには、教師がアートマの知識を身につけておかなくてはなりません。燃える炎だけが他者に火をつけることができるのです。このアートマの知識さえあれば、あとは愛と規律によって子どもを正しく導くことができます。(以下省略)
(※スワミとは私の師のことです。)

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