愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

保守的であること

 インターネットを見ていると、政治に関心をもっている人がたくさんいるのに気づきます。インターネットほどではないのですが、日常接する人が政治に関することを話すこともあります。若いころは社会正義について考えることもあり、今よりは私も政治に関心をもっていましたが、最近は以前ほどでなくなりました。

 政治のことをとやかく言う人が本当に現在国会などで焦点となっている政治課題について純粋に深い関心があるのかどうかはわかりませんが、日常の欲求不満を政治に投影してとやかく言っている風に見える人がいます。スポーツ観戦で何かを発散するように、政局の観察を通じて何かを発散しています。また首相を支持するかどうかは、その人の政治課題への取り組みよりも、その人の人間としてのありように共感するかどうかのほうに影響されるのではないかと思うようになりました。

 政治にはあまり関わらないほうがいいというのが私の考えです。特に若い人はそうです。若いときに政治に関わることで一生を棒に振ることもあります。もちろん、選挙で焦点になっていることに自分なりの意見を持ち、それにしたがって投票することは問題ないのですが、それ以上のことに私は関心がありません。

 ただ私は政治だけに関係することではないのですが、基本的に保守的です。

 誰が言ったか忘れましたが、次のように保守主義を定義した人がいるそうです。
 「人間社会の中で長い間生き残ってきた制度や慣習は、理屈はどうあれ、人々が受け入れてきており、その限りで正しい。そのために社会がおかしくなってきたら、おかしくなってきた部分だけを少しずつ変えていけばいい」
 私はこの態度に共感するがゆえに、自分に保守的なところがあると理解しています。

 最近少し関心をもっている出口治明氏(ライフネット生命保険会社)は本に、「人間はちょぼちょぼで、それほど賢くない」と考えているから自分には保守の傾向がある、と書いてありました。私も同感です。

 リベラルというものがよくわからないのでそれについては触れませんが、時に革新といわれている人の中には、頭脳で計画して社会を建設しようと考えている人がいます。若いころはいざ知らず、今の私は、一人あるいはほんのわずかな人間が頭で計画して社会を作り上げることは多分非常に困難なことだろうという気がしています。

 ただし私が保守的だといっても、現在問題は山積していて、おかしくなった部分をどんどん調整しないといけないと思っているので、古くからの形式を守っていけばいいという守旧派では私はまったくありません。変化が必要であるということに関して、私は自分が保守的であるというのがはばかれるほどです。

 政治に関わらず、生活のさまざまな面において、私の考え方は似ています。変化をどのくらい許容するのか? 私は対象への深い愛があるならば、見た目の変化の程度は気にしません。愛国心も、地域社会への愛も、家族への愛もあるつもりです。