セルフリスペクト(自尊心)

 「どんな人でも、家の中では有名人なんです。・・・人間がそれ以上の有名というものを求めるのは間違いではないかと思いますね。」(鶴見俊輔

 私は有名になりたいと思ったことはないのですが、若いころは承認欲求(人から認められたいという欲求)は人並みにあったように思います。有名ということに関する今年亡くなられた鶴見先生の言葉を読んで、その意外というかあるいは当たり前のことを述べた言葉に虚をつかれました。人間が世間において有名であろうとすることは、もしかしたら間違いなのかもしれません。

 鶴見先生の言葉は人の生活の中心は家庭かそれとも世の中かを問っているようにも感じます。私は人の生活の中心は家庭にあり、家庭がうまくいっていれば人生の8~9割はうまくいったも同然だと思っています。

 今日はセルフリスペクト(自尊心)について少し触れたいです。自分を実際の自分以上に見せたり、思い上がったりするプライド(高慢)は好ましくないと思うのですが、自分を尊ぶことつまりセルフリスペクトは若い時期に育んでおくべき性質でしょう。自分を尊ぶことができなければ、他者を尊ぶことはできません。自尊心は自信ともかかわっています。自分(と自分に備わっている力)を信頼し頼ることと、自分を尊ぶことはコインの両面のようなものです。

 最近人に話を聞いたことです。世間の中でうまく生きていくうえでは自尊心は欠かせません。また霊性の道を歩む上でも同様にそれは欠かせないのですが、霊性の段階があがると、時に神様は人から自尊心(セルフリスペクト)を取り上げようとすることがあると聞きました。人を悲惨な状況に追いやってしまい、それまでの業績などがすべて価値がないかのような状況におかれます。

 人は40年、50年、60年と生きていれば、何らかのものを積み上げます。人はそれらを誇りとするのですが、もし本当に神を求めるならば(それこそが人生の至高の目的とされていますが)それらの誇り・蓄積が神の前では価値のないことを知らなければならないとのことでした。

 有名になりたいとは思わなかったまでも、多少は人から認められたいと思ってきた私、大した人生を送っているわけではありませんが、それでも何らかのものを学び、他者との関係を築き、何らかの仕事をしてきたものすべて、それらは自尊心の構成していますが、それらをいつかは手放さなければ、先へ進むことはできないということはここ最近の大きな学びです。

 50歳は知命といわれます。その年を過ぎれば、天あるいは神の促しに従って生きるよう覚悟を固めつつある今現在、小さな自己への執着も手放すよう努めるつもりでいます。