イーシュワラ

 先週の記事の中で、私たちが世界を解釈する以前にそこにあるもの、つまり実在は神そのものではないかと書きました。私たちが世界を見るとき、そこには山や空や建物や村や町があり、それらが神ご自身であるとはどういうことかという疑問が生じることがあります。

 映画のたとえを取り上げます。映画はスクリーンに光を投射して何らかの物語を描き出すものです。映画にはスクリーンと光の両方が必要です。この世もこれと同じで、実在といわれるものの上にさまざまな映像が映っているだけではないかと思うのです。

 多分、実在はインドではプルシャといい、映像はプラクリティといいます。神様の名前で表現すれば、実在はシヴァで映像はシャクティです。シヴァはシヴァ神シャクティシヴァ神の后です。シヴァとシャクティが一つになったものをイーシュワラといっていたような気がします。つまりこの世はイーシュワラです。

 映画は視覚と聴覚だけに訴えかけます。しかしこの世は視覚・聴覚だけでなく、触覚にも嗅覚にも味覚にも訴えかけます。精巧にでき上がった究極の映画です。私たちはそれに役者としてさえも参加しています。

 漫画やアニメでは、魔法使いあるいは占い師が水晶玉を覗き込む場面があります。水晶玉に何らかの映像が浮かび上がってきます。この世はまさにそれです。

 目の前の壁に頭をぶつけると、それが映像に過ぎないとは思えないでしょうが、しかし松尾芭蕉その他の人がいったように、人生とは一瞬の夢のようなもの。過ぎてしまえば、夢としてしか存在していません。

 この世がイーシュワラであるだけでなく、私たち人間も魂(アートマ)と現象としての肉体が組み合わさったもの。つまりイーシュワラです。私たちは存在の深いところで神とまったく同一といえるのではないでしょうか。