愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

文化

オバマ大統領は次のように言っています。
“We are shaped by every language and culture, drawn from every end of this Earth. We know that our patchwork heritage is a strength, not a weakness.”
(私たちはすべての言語と文化によって形作られています。この地球のあらゆるところから引き寄せられています。私たちは、継ぎ接ぎ(つぎはぎ)でできた私たちの遺産が強さであって弱さではないことを知っています。)
(*英語の訳がこなれていませんが、許してください。)

私はアメリカの強さは人々の多様性にあるのではないかと感じます。さまざまな人がいるので、状況が変化しても誰かが対応できるのです。ただ多様であるだけではなく、価値観の違いを超えて理解し協力し合おうとするところから多くのものが生まれます。

日本文化ももともとはこの多様性の上に築かれたものだと思います。想像しかできないのですが、縄文時代にこの日本列島に住んでいた方々はネイティブインディアンのような生活をしていたのではないかという気がします。農耕が始まる前なので彼らとそう異なってはいなかったと思います。そのような時代が続いたあと、大陸との交流が活発になり、記紀に記されているような時代になりました。神話時代そして古代国家は大陸との交流を通じて生まれましたが、その時代は日本列島にさまざまな人々や文物が流入したのではないでしょうか。仏教も時間をかけて日本社会に受容されました。明治維新前後も西洋との出会いによって新しいものが流入し、それらと古来からの日本文化の混在が生じ、それは今もなお何かを生み出そうとしています。

文化とは、多様性のうちに一体性を見ること、そして一体性への信念に基づいて生きていくことだと思います。便利なので私はときどき一体性という言葉を用いますが、これは「自立した個人がお互いに協力し一つとなって生きること」くらいの意味です。人はそれぞれ異なりますが、お互いが協力することで社会はうまくいくのだと思います。つまり文化とは、多様な人々とともに協力し合って暮らすことに信念を持つところから生まれると思うのです。

エリオットは「文化とは生き方です」と言ったそうです。食べることも、着ることも、住むことも、会話することも含め、日常生活のありとあらゆる振る舞いが文化です。
また、文化とは人々を洗練するものだと考える人もいます。たとえば、金属の塊はさまざまな工程を経て時計へと形作られます。人間もその社会の生活様式や制度に従っていくことで、洗練され、完成されます。そのように人間を洗練させるありとあらゆる制度や様式が文化だといいます。そして人間は能力を発揮してこそ完成に至ります。

多様性が多様性のままでは、単に烏合(うごう)の衆です。そこに一体性を見なければなりません。たとえばJapanという文字があったとき、それをジェイ、エー、ピー、エー、エヌとではなく、ジャパンと読むことができなければなりません。社会がひとつであることに気づくためには霊的な視点が必要です。日本人には「万物がひとつである」と感じる素養が多民族に比べて備わっているそうですが、これは内面がある程度浄化されないと得ることのできない感覚です。

少し前に『置かれた場所で咲きなさい』という本がベストセラーになりましたが、私もこの著者の意見に賛成で、ある状況に置かれたら何年間かはそこで頑張ってみることがその人にとっていいのではないかと思います。その置かれた環境で自分に何ができるか、どのように能力を発揮できるかと考え工夫しながら生きることこそが文化的な生き方のように思います。お芝居を見たり、コンサートを聞きに行ったり、本をたくさん読むことだけが文化的なのではありません。

世界各地は気象条件が異なったり、背景の異なる人々がさまざまな割合で集まっているので、生き方すなわち文化もそれぞれです。生き方=文化の多様性はその社会の力だと思います。