私よりかなり年配の方ですが、日本の数学者で岡潔という方がいらっしゃいます。この方は教育や文化に関して大きな関心をもたれた方で、多くの著書を残しています。私は何冊か岡潔氏の書かれたものを読んだのですが、彼は「情緒」というものを大切にされます。彼自身は情緒を数学の形式で表す仕事をしていただけだとおっしゃいます。
西洋は論理的な思考が発達しており、日本は感性の感度が優れているといわれているのを聞いたことがあります。優れたものは国や地域に依らず論理と感性とが調和していると思うのですが、多くの日本人は感性で物事を捉える傾向があるのかもしれません。岡潔氏のいう情緒をそのような文脈で理解することもできます。
岡潔氏はインスピレーション型の発想に対置させて情緒型の発想を取り上げています。直感といえば、日本の禅でもそうかもしれませんが、一気に気づきが得られるある種の悟りの体験を示すように思います。これに対して情緒は、突然ひらめくというものではなく、心の中でアイデアや概念、視覚、ビジョンのようなものが自律的に発展するような感じです。何というか、さまざまな知識や経験、感性、論理などが一緒にされて発酵していくようなイメージを私はもっています。
教育においてはこの情緒が大切だと岡氏はおっしゃいます。特に小学生の中学年までにこの情緒を育むことができれば、子どもはぐんと成長するといいます。
この岡氏の情緒に関する文章を読んで、たしかにそうだなと思いました。私は直感を重視する傾向が強かったのですが、直感が正しいかどうかを見分けるのは意外に難しいからです。単なる想念が頭によぎった場合と、深い気づきを伴った直感を見分けるには、ある程度経験を積み、邪念が少ない人でないと間違うことがあります。本当は自分の直感や良心の促しに従って生きるのが好ましいのですが、何が直感で何が単なる想念かを識別するのが難しい人は、立派な人の手本や教えに従って行動するのが安全です。
それにたいして情緒は、植物のように、意識の底から発生し顕在意識へと時間をかけて次第に形をとってきます。それは一瞬の気づきではなく、熟成されたもので、心に住む一つの生き物のようなものです。その存在に気づいたときは、ある程度完成しており、あまり人を迷わせるものではないように思います。このような情緒を表現することは、安全で着実だと思います。
創造は、直感の形を通じてあらわれるよりも、むしろ情緒を通じてもたらされることのほうが多いのではないかと最近は考え直しています。対人関係もこの情緒を通じて形成されるもののような気がしますし、自然の隠された神秘や驚異に気づかせてくれるのも直感よりも情緒なのかもしれません。