体と知性

以前知性について、頭とハート(胸にあり情緒を司るところと考えれば理解しやすい。霊的なハートは右胸にあるとされる)がつながっていることだと書いたことがあります。ハートはインスピレーションの源で、それをもとに頭脳が計画したり検討したり、手続きを定めます。ハートと頭脳の連携がうまくいっている人のことを知的な人といいます。知性はサンスクリット語ではブッディといい、ブッダは知性が確立した方という意味を持ちます。
 
これと矛盾するように見えるかもしれませんが、最近特に思うようになったのですが、「知性とは体と頭脳がつながっていること」とも定義できます。ツイッターをしているとひしひしと感じるのですが、世の中に政治が好きな人が多くて、右寄り・左寄りの人がそれぞれいます。私の考える右寄りとは、体デッカチで体感に従って判断するのですが、頭脳が働いていないことが多かったり、頭脳が働いているように見えても単に若い頃に得た土着の価値観を振り回しているだけの方が多い印象です。左寄りとは、右寄りの人に比較して体に配慮せず、頭脳で考えて是非などを判断する傾向が強く、頭でっかちの傾向が強い印象です。体感を無視するがゆえに観念的過ぎる人もいます。こういうふうに考えると、右寄り・左寄りとはっきりわかるような人は、どちらにしろ体と頭脳がつながっていなく、知的でない可能性が高いと思えるのです。
 
政治から離れて、体と頭脳のつながりについて少し考えてみましょう。
人は日々活動に携わっています。程度は人によりけりでしょうが、肉体を動かしています。その日の活動だけでなく、一週間、一月、一年、生まれてきてからの数十年の蓄積があります。ギータでは肉体はクシェートラ(場、土地)といわれていますが、肉体には活動の蓄積が記録されています。例えば病というものも活動の蓄積が表面化したものです。甘いものを食べ続けてきた人は糖尿病になりやすいでしょう。肉体に記録されたことの一部は意識化されますが、多くは無意識の領域に蓄積されています。しかしながら、私の実感としては、肉体(クシェートラ)に蓄積されたものは、畑にまかれた種子がいつかは発芽するように、いつかは意識に上ってきます。それは一部睡眠中の夢の形を取ることがあるかもしれませんが。その肉体に蓄積されたものが意識に立ち上がってきたものを頭脳で咀嚼すること、それがクシャートラジュナ(場・土地を知るもの、内在者)の機能の一つであり、それはとりもなおさず、知性と名付けられるものに他ならないと思います。
 
体と頭脳がつながっている状態を考えるには、体と頭脳がつながっていない状態を考えるのが良さそうに思います。体と頭脳がつながっていない一つの状態は、肉体の要請がないのに考え続けることです。理念ばかりにこだわり、観念的になった人です。雨が降ったあとの大地に太陽が降り注ぐと水蒸気が湧き上がりますが、日照りが続くと水蒸気は湧き上がってきません。肉体の要請がないのに考え続ける人とは、日照りの状態、乾燥した状態であがいている状態、苦しんでいる状態に似ています。もう一つの体と頭脳がつながっていない状態は、肉体の要請があるのに、その微妙さを無視してドクマに陥り、状況を無視して過去の価値観を繰り返し持ち出してくることです。思考を拒絶した状態といえます。どちらのケースも体と頭脳がふさわしくつながっていないわけです。
 
ならば知性が働いている状態、体と頭脳がつながっている状態とはどういうものか? 人によりけりなのかもしれませんが、一日の活動が終わり、夕刻から寝る前にかけてゆっくりとした時間を過ごしている時に、一日を振り返って、何とはなしに物思いにふけっていることがあります。特定の場面や言葉を反芻していることがあるでしょうし、その日一日の行動と過去の経験が不意に繋がりを持つこともあるでしょう。学生時代や成人してから学んだ知識を当てはめて考えたり、ある概念への理解が深まることもあります。逆に今までは漠然としていたことに対して問題意識が芽生えることもあります。物思いにふけっている時、そのようなことが起こります。現代人はテレビを見るという悪習がありますから、そういう無為ともいえる物思いに耽る時間はかつてに比べて減っているのかもしれませんが、私にいわせれば、そういうふうにある種自動的に、機械的に頭脳が働いている時には体と頭脳がつながっているはずなのです。そういう思索、内省、物思いの時間は、宝ともいえる時間です。人間的でもあり、機械的、自動的=運命的でもある過程です。人によっては思考が循環することが多く、行き詰まりを感じたりもするでしょうが、そういう時は思考を整理するための新たな知識を必要としているのでしょうし、抱えている問題を一旦おいておいて、関心のあることを学ぶ時間をとるのがいいでしょう。
 
ハートと頭がつながっているのが知性で、一方体と頭がつながっているのも知性。体は人間の意識とは関係なく機能しています。無意識的です。体を司っているのはハートなのかもしれません。そうであれば、二つの知性の定義は一致するといえます。ハートは、瞑想を続けなくては理解しにくいかもしれませんが、体のことはもう少し理解しやすいですし、体の声に耳を傾けるのは賢い選択といえます。