肉体は世界が体現される場

 先週は、社会が自己を入れる容器で社会へのコミットメント(関与)や奉仕を通じて自己が拡大していく、そしてその拡大こそが人生だと書いたのですが、その続きです。

 たとえば目の前に誰かがいて、その人が何かに苦しんでいるとします。その人と共にいると、自分の心も痛みます。自分の心を痛みを取り除くために、相手の苦しみを取り除く努力をします。相手と自分との間に目には見えない絆があるからです。

 自己が拡大していくと、自らが一体感を感じるその社会の歪みを肉体は検知するのではないかと思うことがあります。現代インドの聖者ラマナ・マハリシはガンを患ったようですが、ラマナ・マハリシはそのことを人に聞かれると「これは誰の病ですか?」というように返答したようです。ラマナ・マハリシは世界を自らと同一視できた人で、おそらくラマナ・マハリシは世界の病を自らの身に引き受けたことを示唆したのではないかと理解しています。そのように自己を拡大させ、社会の幸福と苦しみを自らのものと感じることのできる人は、社会のあらゆる様相を自らの身体に刻み込むことでしょう。

 ギーターによれば、肉体はクシェートラ(場)とされ、内在者はクシェートラジュナ(場を知るもの)と呼ばれます。世界は細部にも宿るとされますが、全世界はほんの一人の人間の肉体にも宿る(刻まれる、体現される)ことでしょう。その人が肉体をコントロールして調子を整え、健康を保ち、それを用いてふさわしい仕事をすることは、世界を整え、世界に対して仕事をしているに等しいとさえいえます。

 リーダーの思考というものも同じように考えることができます。リーダーは特定の社会・集団と自らを同一視するもののこと。リーダーはその社会の幸福と苦しみを観念ではなくまさに自らのものとして体験します。リーダーは自らが一体である社会をその肉体に体現します。そしてその肉体や内面の状態に従って、思考がめぐります。彼の思考は自分というただ一人の人間に限定された思考ではなく、社会的思考とでもいうべきものです。未来のリーダーに求められるのはこういう思考であろうと私は思うのです。

 肉体を見れば、世界が見える。それはセンサーのようなもの。私は十分に自分の肉体を見れてはいませんが、丹念に見ていけば、より多くのことが理解できるはずです。肉体は軽視せず、大切に扱うべきでしょう。