社会は自己の拡大

 先週神と帰依者の関係は、社会の骨格をなすということを書きましたが、今日も社会のことについて触れてみます。

 おそらくは少なくない人が、自分とは何かと問われたならば自分の体のことだと答えるでしょう。人が死ぬと、その人の肉体はあっても周囲の人は嘆き悲しみますが、それは人が体ではないことを示しています。周囲の人は体に宿っていた命が体から去ったことを知っているのです。
 あるいは呼吸を意識的にゆっくりしたり、止めてみたり、普通の速さに戻したりして見てください。呼吸をコントロールしている自分と呼吸と体があります。呼吸をコントロールしている自分と肉体は等しいでしょうか? 人は呼吸しないと死んでしまいますが、人がわずかなりともコントロールできる呼吸のおかげで肉体の調子が変わります。そのように自分と肉体の間に呼吸をおいて考えると、自分と肉体が異なることに気づくのではないかと思いますが、どうでしょうか?

 今何がいいたいかというと、人=自己は肉体ではないということがいいたいのですが、その自己というものは肉体意識を伴うつまり肉体に宿るのと同じように、社会という「器」にも宿るのではないかということです。

 結婚すれば配偶者に執着し、子どもができて手塩にかけて育てれば、子どもが異なる肉体をもっていても、子どもの安全のことが気になるのは人の情でしょう。そうして育んできた家族の喜びや苦しみがあたかも自分の喜びや苦しみとして体験されます。私はそれを自己の拡大と呼びたいと思います。

 単に家族だけに限りません。会社で長い間働けば、会社の業績が上がれば自分のことのようにうれしいでしょうし、定年して退職したあともできれば長く会社が存続してほしいと思ったりもします。また赤の他人よりは同僚たちに親近感を感じるでしょう。地域の自治会で地道な仕事を捧げてきた人も、地域の発展を願うに違いありません。

 自分が何らかの犠牲を払って関わってきた人たちとは、同じ釜の飯を食った仲間ではありませんが、絆というか一体感があるものです。犠牲とは自我の壁を取り除くことでもありますから、真の自己は自我の壁を越えてより大きな存在を器として拡大する。私はそういうことがいえると思っています。国の発展のために人生を捧げてきた人は、自分の母国が仮に他国に侵略されたとしたら悲しいわけです。おそらく自分が破壊されるに似た感情を抱くことでしょう。人間の成長とは、このような類の自己の拡大に他ならないと思います。いわゆる器が大きい人とはそのように自己を拡大させた人のことなのでしょう。

 社会が拡大された自己であるならば、つまり社会が第二の体であるならば、社会の欠点は取りも直さず自分の欠点であって、それを自分とは離れたもの、別ものとして非難するのではなく、たとえば体に腫れ物があれば薬を塗ったり、体が汚れたら入浴して体を清潔に保つのと同じように、社会を自分自身とみなして手入れするのが適切なはず。つまり社会のために働くこと=社会奉仕とは拡大した自己への配慮であり、取りも直さず自分のための奉仕なわけです。

 眼の前の人が嘆き悲しんでいる時、その人を見て自分も悲しくなり、あるいは嘆きたくなったとしたら、その人と自分との間には目に見えない絆があって、自分の中の苦しみを取り除くために、目の前の嘆き悲しむ人に手を差し伸べます。

 もし生きている間に自己を肉体を越えてより広い社会へと拡大させることができたならば、自分の肉体が死んでも、その人は死んだとはいえないでしょう。そしてそういう人は、肉体が死ぬことがそれほどは怖くないはず。拡大こそが命です。そしてそれは自我(自分が肉体であるという意識)をとりのぞくこと、つまり犠牲を通じてもたらされます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このブログは7月ころに他のブログサービスに移行させようと思っています。あらかじめ書いておきますが、移行先の仕様はわからないのではっきりとしたことはいえないながらも、今のところ移行先でも「愛に生きる」という名のブログを、はーにいちゃんの名で続けるつもりでいます。もしご縁がありましたら、そのブログ名で検索してみてくださいませ。