愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

全託2

 「全託とは何か?」なかなか答えの出ない問いです。家にある小さな辞書にはこの言葉は載っていません。漢字を見るかぎり、全てを託すと受け取れます。あるいは全てを委ねると理解している人もいます。文献を探すと、さまざまにこの言葉が定義されています。どれも正しいのだと思います。しかし人はさまざまであり、何かを実行に移す際にはそれぞれの心性にあった理解が必要です。

 私は今この言葉を「謙虚さ」という徳のことだと受け取るようにしています。何の前での謙虚さか? 絶対者の前での謙虚さです。知力を含めて人間の能力を越えた存在があります。その方の前での謙虚さです。全知・全能者の前で謙虚であるためには、全知・全能である方への信仰が欠かせません。私よりも事情について詳しいお方、私のできないことを代わりになしてくださる方が私にとって最も善いことをしてくださるという信仰です。全知・全能者が私にとって最も善いことをなさってくださるという信仰がなければ、その方に委ねることはなかなかできないでしょう。

 私が自分で自分の人生におけるすべての責任を負わなくてはならない。こう考えることは全託と離れた態度です。私は自分にできることはするが、私にできることは全知・全能者の前ではごく僅かであり、であるがゆえにあなたの助けを必要とする。このような謙虚さが大切です。

 特に困難な状況にないときは、あまり行為の結果にこだわることなく、なすべきことを行うのはそう難しいことではありません。全託の姿勢が特に問われるのは困難な状況においてです。何らかの危機に直面したときほど、事態がこうなってほしい、ああなってほしいと願ってしまうものです。しかし真に全託の姿勢が身についている人は、困難な状況においても心が平静だといいます。心が騒がしいのは、状況にとって最も善いことを知っているのは自分だというおごりがあるからですが、そういうときに私よりもはるかに物事を知っているお方がいると思うことができるならば、そしてそのお方が私に対して最も善いことをしてくださるという信仰があるならば、きっと心は平静でいれるのです。

 しかし、それが難しい。自分の思うような結果を求めてしまうと委ねることができません。

 ところで、全託を通じて得られるものとは結局のところ何なのでしょうか?

 インドにはサナタナダルマという言葉があります。永遠のダルマという意味です。この言葉も難しいのですが、私は、これは宇宙の理法・法則というような意味で受け取っています。自然には自然の法則があります。人間としての生きる道というものもあります。そして行為には必ず結果が伴うというインドで太古から考えられてきたカルマの法則というものもあります。こういうものを総称してサナタナダルマというのではないかと理解しているのですが、思うに私たちが人生を全託したときに結果として現れてくるもの、結果として得られるものは、このサナタナダルマのような気がするのです。

 さまざまな破壊や汚染によってバランスが崩れている自然、人間としての倫理が乱れている社会、全託する人間が増えることによって、これらがバランスを回復しだす。そういうことではないかと思うのです。サナタナダルマが回復すれば、富はふさわしい人のところに集まり出すでしょうし、地位もふさわしい人に与えられるようになるでしょう。ですから、それは結果として人間の小さな願いも満たしてくれるはずなのです。

(全託1の記事はこちら