愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

全託6

定期的に全託について書きたくなります。漢字では全てを託(たく)すと書きますが、私の素朴な気持ちとしては、すべてを委ねるということです。私は真宗の教義の核心は全託だと思っていますので、それについてしばしば考えるし、それを実践していきたいと思っているのです。
 
英語ではsurrenderと書きます。この言葉は降伏という意味をもちます。例えば戦闘状態にあった誰かが相手にかなわないと思ったら両手を上げて降伏します。その場合、自分の身の処遇は大抵相手に委ねられています。状況に対してお手上げ状態なわけです。その場合、手には何も持っていません。自分のものとしては何も持たず、信じるものに存在を委ねることです。全託というものがどういうものかを示唆します。
 
一つは自分の置かれた状況があります。一つはその状況で自分ができることがあります。そしてもう一つは、自分が行ったことに対する結果があります。私の理解としては、自分の置かれる状況と自分の行ったことに対する結果は、自分で思う通りに選ぶことはできません。私はこの世に本当に生まれてきたかったのかよくはわかりません。それも日本のまさに自分の親のもとに生まれたかったのかも。自分には何らかの能力と不得意なことがありますが、それもどこまで自分で選べたのかわかりません。気づけば今あるところに生まれ、そして長い間生きてきたのです。自分の行った結果についても、私は自分で選ぶことはできないと思います。ギータには人には行為への権利はあるが、行為の結果への権利はないといいます。結果は返ってくるのですが、どういう結果が返ってきて、それがいつ返ってくるかはわかりません。行為の結果は自分の思惑に従って返ってくるものではなくて、神の計画に従って割り振られるとも聞きます。従って、自らが信じるものに全託したとき、自分にできることは与えられた状況の中で適切に義務を果たすことだけでしょう。
 
信じるということも重要です。自らが委ねようとするものを信じることができなければ、全託の態度はなかなか取れないものです。自らが信じるものが、自らよりもより深い「知性」を備えていて、状況を理解しており、私の長期的な安寧・幸福・善を気にかけて下さっていると信じることができなければ、そもそも委ねようという気すら起きないでしょう。絶対的な信仰と全託は不可分なはずです。
 
全託は、荷物を持って電車に乗ることに例えられることがあります。電車が全託する対象、大抵は神です。一旦電車に乗り込めば、自分で荷物を抱えておく必要はありません。荷物を手放しても電車は荷物も一緒に運んでくださいます。荷物を自分で抱え続けて電車に乗り続けるのと、荷物を床に置いて電車に乗り続けるのとでは、負担が全く違います。全託とは、荷物を床に置き、自らの負担を軽くして生きることであり、そうであるにも関わらず、貴重品=荷物は手元を離れることがありません。委ねることと委ねないことの違いはこれだけであって、その他には何も違いがないとしたならば、委ねたほうが賢いといえます。
 
次のような例えもあります。1円玉が1万個あるとします。1円玉1万個に等しいのは1万円札ですが、1円玉1万個を1万円札に替えてもらえれば、持ち歩く手間は随分減ることでしょう。1円玉は私たちのさまざまな思いのことです。人は多くの心配や気遣いなどを抱えていますが、それらの細々としたものを絶対的な信仰、細々したことを神がすべて取り計らってくださるという信仰といえる1万円札に替えれば、気は楽になるものです。私たちがおかれた状況はさほど変わりはないかもしれませんが、気持ちが天と地ほど異なります。
 
このように全託といえば、気持ちの問題が大きいのかもしれません。しかし委ねることでもし恩寵が降り注がれれば、実益というものが得られることもあるでしょう。言うは易く行うは難しですが、心の平安を求める人は全託について考えてみるのもいいと思います。