愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

信仰の多様性と調和

以前京都にある昔からの商家の話を読んだのですが、その商家では家のあちこちにいろいろな神様を祀っていました。自分の家の宗教は多分あると思うのですが、かまどや玄関、廊下のつきあたリなど、様々なところに恵比寿様や大黒様などの様々な神様を祀っていました。

 日本は多神教のところがあり、仏様も拝むし、神社にお参りもし、私はこの風は日本人の良さであると思っていますが、しかし一方で崇拝の対象をただ一つに定めていらっしゃる方もいます。キリスト教徒の方や、仏教では真宗などもそうです。

 私はあまり耳にしませんが、異なる信仰をもつ者同士が結婚する時、日本ではどうしているのでしょうか? 信仰に寛容な人同士ですと何とか調整したり、一方が改宗したりするケースもあるのでしょうが、実際にはどうなのでしょう? 一つの家庭の中で夫婦がともに互の信仰を尊重し合って暮らしているのでしょうか? みなさんがどうしているかはわかりませんが、私の場合、もし異なる信仰の人との縁談があった場合、まずは話をすると思います。何をどう信じているかを知りたいです。

 数少ないようですが、同じ信仰の人同士で縁談を組んでいる人達が居ることも知っています。

 私が多神教を許容するのは、どの対象に祈りを捧げても、それが届くところはただ一つだと信じているからです。これは私が幼い頃からの実感でした。

 聖書にも信仰が奇跡を起こすことが書かれていますが、心からの純粋な信仰は奇跡をもたらします。神様の名前を唱えながら川の上を歩いて来なさいと教えられて実際に川の上を歩いてきた人もいるようですし、神様が宝石を体中に身につけて川岸で遊んでいると聞いた泥棒はそれを信じて神様を見たこともあるそうです。

 私は改めて自分の信仰について考えてみました。インドのアヴァター信仰、つまりこの宇宙を作った創造主が人間の形をとって地上に降りてくることがあるということを信じていますし、目をつぶったときに自分の内側を満たす意識が神、創造主の本質であると信じています。単純なのかどうかわかりませんし、他の方から見れば変わった信仰なのかもしれませんが、それが私の信仰です。これは信念ではなく、自分が現在自然に受け入れられることです。

 憲法にも書かれていますが、何を信じるか、受け入れるかは自由(信教の自由)だと思います。自分が自然に信じ受け入れられることを他人からどうのこうの言われても仕方ありませんし、他の人が自然に心から信じていることについてもそれを尊重するつもりでいます。

 しかし、自分が何を信仰しているかはしっかりと問うてみる必要があります。私はある対象に対して平伏していた人が数年後にもう信仰を失ったというケースを見たことがあります。私からすれば、その人には最初から信仰がなかったのではないかという気がします。単に何らかの信念に過ぎなかったのだと思います。

 宗教のように高度な体系を受け入れる以前の素朴で純粋な信仰を多くの人にもって欲しいですし、無信仰なようでいても何かを信じていることがあるものですから、同時に自分の信仰にも気付いて欲しいです。そしてそれらを互いに尊重しあう世の中であってほしいです。