カルマの法則

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Camilo Garavito


遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。新年になってもう1週間が経とうとしています。いつもと同じことをしていては、同じ結果しかありません。年をとるとなかなか生活に変化をもたらすのが難しくなります。一歩でいいので、前に進みたいと思っています。

 私が小さい頃、家に一冊の本がありました。今から見れば内容的にはそう大したものではありませんでしたが、それはカルマについて書かれた本でした。自分で買ってきたわけではないと思いますし、親もそのようなものに関心があったようにも思われず、その本が家にあるのは少し不思議な気がしますが、その本が私の心を捉えました。

 その本には、仏教の六道輪廻とあわせてカルマのことが書かれていました。カルマという言葉は小さな言葉ですが大きな意味があります。それは行為という意味です。仏教では善因善果悪因悪果が説かれています。善いことをすれば善い結果が得られ、悪いことをすれば悪い結果が得られるということです。自らの行為の結果は、行ってすぐあらわれるかどうかわからないのですが、必ずその結果を体験しなくてはならず、そのカルマによって人は生まれ変わるということが本に書かれていました。

 その本を読んだとき、私は非常に恐怖を感じました。子どもというものは、あまり考えもなしに悪さをすることがあるものです。私もそうだったので、地獄に落ちたらどうしようなどという思いにとりつかれてしまい、深刻に悩むようになりました。

 カルマの法則は輪廻転生と分かち難いものですが、これは信じるか信じないかだと思います。輪廻転生を説かない宗教を信じている人には信じることはできないでしょうし、仏教徒ヒンズー教徒の一部は信じるでしょう。私は宗教のことに詳しくなる以前から、この輪廻転生やカルマの法則を信じるようになりました。

 その後の人生で30年近く苦しんできましたが、その間もこれはカルマの報いなのだろうと私は信じていました。この人生に限っていえば法外な悪さはしていないはずなのですが、苦しみは法外でした。カルマ(行為)の報いとはきついものだとひしひしと思いました。今は、持病を抱えつつも、平安で幸福な日々を過ごしているので、少し冷静にカルマについて見れるようになってきました。

 神様はこの世を作り、その中に人間を置いたとき、人間に何でも好きなことを許したといいます。ただし、ひとつだけ条件があります。それは、自分の行った行為の結果を味わうことです。山間地で大きな声を出すと山びこが帰ってくるように、この世は反映、反響、反射として存在しています。それは、行為の結果を味わうことで人間が成長するためです。私はこのカルマの反映、反響、反射を日常生活の中で実際に実感できることが増えてきました。

 カルマは確かにある意味過酷です。私にはうかがい知ることのできないことですが、霊能力の備わったある人は、ナチスに殺されたユダヤ人たちの多くが、イエスキリストの磔に賛成したユダヤ人の生まれ変わりだといっています。ナチスの行為は残虐ですが、その霊能者によれば、ユダヤ人の苦痛はカルマの報いだというのです。

 今現在は、カルマは究極の平等原理だと思えるようになってきました。一人ひとりの人生は一回限りでは不平等です。たとえば私の前半生は苦しみを味わうための人生だったように思えます。同年齢の人の中にははるかに楽な人生を歩んでいる人がいます。それはその人たちの過去世の功徳のおかげなのでしょう。しかし結果を味わうという点に関しては、カルマの法則はまったく平等です。1回の人生だけでなく、何回もの人生を通じて善いカルマも悪いカルマも解消されます。今わがまま放題にしている人は将来必ず苦しみます。今正しい道を歩んでいる人は、必ず喜びを得ます。

 現在苦しんでいる人がいれば、その方にお話しておきたいのは、苦しみは一時的だということです。(一時的だといっても数年、数十年続くこともあるかもしれませんが)。カルマがなくなれば苦しみもなくなります。苦しみのあとには、喜びを味わうことができます。またどうしても苦しみに耐えれない場合は、祈りによって軽減されることもあります。(私は多分祈りによって、だいぶ苦しみを軽くしていただいたと思います)。苦しみはただ耐えるだけで大変ではありますが、生き方次第でその苦しみを自分がより向上するために活用することができます。

 善い人間でいなさい。善いことをしなさい。善いものを見なさい。善いことを言いなさい。これは本当に黄金律だと思います。