岩波文庫に「日本の弓術」という本があります。これには阿波研造師範のもとに入門したドイツ人オイゲン・ヘリゲル氏が弓術を会得するに至った過程が書かれています。私はこの本を何度か読みましたが、日本人があまり言語化しない領域をきちんと表現しようとしており、非常に大切なことを学ぶことができました。
この阿波師範は、遠く離れた的に、真っ暗な中2本の矢を放ち、1本目の矢を的の真ん中に当て、2本目の矢を1本目の矢の筈に当ててそれを二つに割くほどの腕前です。師範はヘリゲル氏に「的を狙わずに射中てること」ができることを教えるために暗闇で矢を放ちました。
これほどの腕前を持つ阿波師範と同時代人で、やはり卓越した境地に達した方に梅路見鸞老師がいます。1892年に生まれ、1951年に亡くなった梅路見鸞老師は、若い頃から参禅しまた弓術も修められました。禅の印可を受け、弓術も卓越していましたが、禅よりも弓術を通じての方が見性(悟り)に達するのが容易であるとおっしゃり、弓禅を指導してこられました。大阪箕面に道場があったとのことです。
梅路師が道を求められたきっかけは花の美しさであったそうです。
「今から25,6年も前のことだが、小金井に花見に行ったことがある。その時に満開の桜を見て”ああ、美しいなぁ”と感じたその刹那に”美しい”と感ずる心はどこにあるか、”美しい、美しい”と真に感じ思う心をはっきり自覚したい、美しい本体をつかみたいと、それから花見どころか、夜も昼も、”美しい、美しい”と口にも心にも叫び通し、求め通した。君たちは随分馬鹿げた話だ、美しいのは美しいのじゃないかと思うだろうが、俺は3年近くも苦しみ通したよ。そうして、美しいも、感ずる心も、それを求める心も、皆一時に行方不明に消失してしもうた、と同時に、一切は悉く美しかったよ。」(「弓と禅」中西政次)
弓術についてはまったく知らないので、梅路師の残されたものの多くはよくわかりません。しかし、禅よりも弓術の方が悟り(実在への気づき)に達しやすいことはなんとなく理解できます。
人間が外界に見るものはある意味有限です。人間が外界を見るとき、視覚によってそれは制限(finite)されます。しかし、禅のように目を閉じて内界を見るとき、そこには制限がありません(infinite)。ありとあらゆる思考の枠組みは内なる力によって押し流されてしまいます。人間にとって無限(infinite)のものに意識を集中するよりも、有限(finite) なものに意識を集中するほうが容易です。弓術は有限(finite)なる外界(的)を通じて、無限(infinite)なる自己を実現します。
余談ですが、これは偶像の礼拝にも同じことが言えます。弓を通じて禅の境地が達成できるのと同じように、偶像の礼拝を通じて姿なき神を実現できます。ハートに石や木しかないものは偶像は単なる石や木に見えますが、ハートに神を抱く者は石や木のうちに神を見ます。それは態度の問題です。
弓術は現代では弓道となり、スポーツの一つとされています。私の知らないところでまだ弓禅が人から人へと伝えられているのでしょうか? ほんの100年前に日本にあったすばらしい伝統がまだ残っていることを願います。