愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

エゴ

人格心理学の研究者の話を聞いたことがあるのですが、人類の最大の発明は「エゴ=心理的に作られた私という観念」だそうです。普段、私、私というときの「私」のことです。そして私たちが最も愛するものの一つが、このエゴです。何かを食べるとき、味も楽しみですが、「私」が食事を楽しんでいるということが喜びになります。何かを着るとき、体を保護することは大切ですが、「私」が服を着ていることが喜びになります。多くの人は、この「私」を中心に生活しています。

若い頃に学校で「自我を確立する」という言葉を聞いたことがあります。それはエゴを確立するということでしょう。西洋では自我の確立は大切なことですが、インドなどでは逆にエゴ=自我を滅ぼすことが大切だといわれます。「私」というエゴと「私のもの」という執着を手放すことができれば、人は解脱するといわれます。

私は15年ほど前にはエゴというものがわかりませんでした。それは私にエゴがなかったからではなく、あまりに染み付いたものだったからです。エゴを自覚するまでにしばらく時間がかかり、現在ではエゴが出てくるときとエゴがないときとがあります。エゴを自覚できたことは私の成長の一つです。中にはエゴ=私という感覚がなければ生きていけないのではないかという人もいますが、しかしそのようなことはありません。

エゴの正体は、自分を肉体と同一視すること、そしてその上に作られたありとあらゆる理論だそうです。実は、人間が肉体ではないことをほとんどの人は知っています。例えば、肉親が亡くなったとき、ほとんどの人は悲しみます。肉体がそこにあるにもかかわらずです。人は肉体ではなくてその中に存在していた生命原理であり、それが肉体を離れたことを知って人は悲しみます。

聖書だったかに、次のような話があるそうです。
ある男が神に祈りました。その祈りに応えて神は「あなたの最も愛するものを捧げれば祈りを叶えてあげましょう」といいました。男がそれを受け入れると、神は「あなたの最も愛する息子を捧げなさい」といいました。男は約束だからということで、それを受け入れ、息子に生贄になるように伝えます。そして剣で息子を断ち切ろうとするとき、神が息子をさらい身代わりに山羊を置き、山羊が殺されてしまいます。神は「あなたを試そうとしただけです」と言いました。この話に倣って後にキリスト教徒やイスラム教徒は山羊を犠牲に捧げるようになったということです。現在では山羊を殺し食べることだけが行われ当初の精神は形骸化していますが、本来の意義は、神には最高に価値のあるものを捧げなくてはならないということです。
先程も書きましたが、私たちが何かを愛するとき、それ自体を愛しているのではなく、「それを私は楽しんでいる」というエゴの感覚を楽しんでいます。つまり私たちにとって最も価値あるものはエゴの感覚です。そしてそのエゴを捧げることを神は喜ばれます。

エゴを滅ぼすための最も簡単な方法は「私たち」を優先することです。家庭においても職場においても地域においてもいつも「私たち」を優先していれば、次第に「私」というエゴの感覚は減っていきます。エゴが減るということは、私たちの内を愛が満たすようになるということで、それは平安や喜びを与えてくれます。人は肉体感覚のない(つまりエゴのない)熟睡状態で最も幸福を感じます。

強烈なエゴの感覚をもつ人がエゴを手放さざるを得ないような状況に置かれたとき、その人は特定の人や状況に怒りを感じることがあるかもしれません。長い目で見れば、そのような場合にはエゴを手放すように心がけたほうが好ましいように思います。