愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

私にとって哲学とは

4月になり、会社や学校では新しい年が始まりました。多くの方々が良き出会いに恵まれますように。
これを読んでくださる方々にも感謝申し上げます。誰かが読んでくださるので、何かを書くことができます。これから先、ブログの記事を書く事を通じて、私も新たな出会いに巡り会えればいいなと思います。

私は過去哲学の本を手にしたことがあります。何か真理の断片でもつかみたいと願っていた頃のことです。いろいろ読んでみたのですが、正直いって難しいものばかりでした。まともに読み通した西洋思想の本はたった2冊だけです。その何十倍もの本を手にしたのですが、わからないのでほんの少しだけ読んで途中で手放すことが続きました。

哲学とは何かということに関してさまざまな定義がありますが、その一つに「知を愛することが哲学です」と言われます。確かにそれは「知」なのでしょうが、特別な知的能力のある人だけに許されたある種の知的オリンピックのような気がします。私にとっては、それは哲学=フィロソフィーではなく、フルロス(full loss)=完全な喪失でした。

しかしながら、このブログもある意味では哲学的なことが多く書かれているかもしれません。私は個人的に哲学を次のように定義します。「人や事物に霊的意味を与えること、あるいはそれらのうちに霊的意味を見ることが哲学です。」現在さまざまな事物の意味が不明であったり、理解不能だったりします。政治や経済をはじめとしてさまざまな分野にわからない言葉がたくさんあります。この世に存在するものはすべて、そこにあるべき道理があってそこに存在すると私は信じているのですが、それらの多くが意味を失っています。そしてその見失しなわれた霊的意味=価値を再度与えなおすこと、つまりfill loss(フィルロス=失われたものを再び満たすこと)が哲学=フィロソフィーの役割であるように思います。

以前私は、哲学は「私とは何か?」つまり「汝自身を知れ」という言葉に始まる、と書いたことがあります。まず何よりも私たちは「自分を知る=自分の霊性を確かなものとする」ことを行わなければ、ほかのありとあらゆるものを手にしても、それらはほとんど何の役にも立たないでしょう。 人間は他の人々そして世界に価値を見、価値を与えます。それらはすべて自分があってこそ可能です。「人命は世界よりも重い」と言われたりもしますが、それは人間こそが世界に価値を与えるからです。金(きん)に人間が価値を与えなければ、金(きん)はその辺にある石ころと同じです。

事物は、その物質側面や感覚的側面、経済的側面などだけでなく霊的側面を理解してこそ完全に理解することができます。たとえばコップは、それが土で出来ていて、白い色をしていて、何百円したなどの知識だけではなく、人間が生きていくのに不可欠な清浄な水を飲むために使う道具であるという理解が欠かせません。そうして初めてコップは役に立ちます。

インド哲学の到達点は不二一元論だといいます。これは、自分を含めてありとあらゆるものが神=ブラフマンであり、その認識から外れることなく生きることを意味しているのだと思います。私たちは、自分を含めすべての人を正しく価値ある人とみなし、一つ一つの事物を正しく価値あるものとして扱うことを地道に積み重ねることで、不二一元論の境地に到達することができるのでしょう。