存在論的・鬱(名越先生の造語)


先週は意志を育むということについて書きましたが、最初に少しだけその補足をしておきます。私は自分の生活を義務としてあるいはすべての行為と言葉と思いを捧げものとして行っていると書き、その過程での小さな判断の繰り返しが意志を育む作業となっていると述べました。一方でサイババが語った言葉に次のようなものがあります。
...he(man) must merge his will with the Divine Will, which is what is meant by surrender.(1967.5.23)
(人は自らの意志を神の意志に溶け込ませなければなりません。それは全託という言葉で意味されていることです。)
義務を行うこと、すべての行為を捧げものとして行うこと自体が一つの意志ともいえるのでしょうが、私個人に関してはそこには何らかの物語性はありません。目の前の義務を淡々と行う、捧げものとして淡々と行うというだけです。しかしそれを行う際の小さな判断の繰り返しは、サイババのいう「自らの意志を神の意志に溶け込ます」作業そのものといっていいでしょう。そしてこれも全託という言葉が意味することの一つであるわけです。

 

さて今日の本題に入ります。今日はあるユーチューブの映像にある言葉についてです。

www.youtube.com

 

精神科医名越康文先生の「続・存在論的鬱」です。この映像の17分10秒あたりから17分50秒あたりに次のような言葉があります。(厳密な書き起こしではありません。正確な言葉は直接映像を見て確認していただければと思います。)
「僕たちは層構造をもっているだけ。あたかも玉ねぎの皮のように。むいたら名越がいる。普段の名越とは似ても似つかない名越がいる。むいたら・・・最後消えるよね。それはあたかも真実であるように我々をおそう。ものすごい権威で。だから存在論的鬱だ。これもまた過ぎ去る。再びコーティングされるだろうと信じて・・・。」

 

私もこのブログで河合隼雄先生の玉ねぎの話を少し取り上げたことがありますが、玉ねぎのすべての皮を取り除いた状態=存在そのものである状態が一方にあります。そして一方に名越先生の言葉でいえばコーティングされた自分がいます。肉体をもつ限り肉体にまつわる関係の系に所属してこの世の中に生きるというわけです。もしまったくコーティングが必要なくなればどうなるのでしょう? 私の見解ではそれは人間の肉体をまとうこと=人間であることを卒業する時期が来たということです。熟した柿が自然に木の枝から落下してしまうように。その時期が来るまでは肉体にまつわる関係の系の中で生きる必要があります。肉体にまつわる関係の中で生きるとは、結局のところその関係性の中で義務を果たすということです。インドでは義務をすべて果たし切れば人間は解脱するという考えがあります。あるいはカルマを果たしきれば解脱するともいわれますが、カルマは関係性の中で義務として表されるともいえます。私は名越先生がコーティングという言葉で言い表そうとしてるものがわかります。役割に似たものです。コーティングを拒絶する必要はなく、私にはまだこの世で果たさなければならない義務があるのだと淡々とそれを受け入れるだけです。

 

名越先生は「鬱」という言葉を使っています。私が初めてその領域に足を踏み入れた当初、あるいは自覚した当初、非常な恐怖を感じたものです。私は水泳ができないのですが、それに似て溺れるような感覚がありました。人にこのことを語ってもほぼ理解されませんでした。後にこの領域で生きることが霊性=霊生(霊を生きる)ことだとわかってきたのですが、今となってはこの領域が本来の家=避け所であり私は夜静かに安らぐためにそこに帰ります。他者から見ればそんな私は鬱のようなところはあるでしょうが、それはそれで構いません。自分が落ち着くのですから。そしてそれなりに幸福に満ちているのですから。

 

名越康文先生のTV シークレットトークの会員登録をしているわけではないのですが、時間があるときにおもしろそうなものを見させていただいています。霊性は本来言葉になりにくい領域ではありますが、そこでの体験が何らかの形で自覚されたものは心理学と重なる部分が多くあると思います。なので名越先生のお話には興味を引くものが多いです。「心理学≒言語化された霊性の一部分」という見方が成り立つかもしれません。