愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

空性

 

私はツイッターをしているのですが、まずは下のツイート、リツイートを見て下さい。( )に名がある人の言葉ですが、名がついていないのは私のツイートです。ツイートの順番は正確ではありません。ツリー状に束にして示しています。

 

1.内面の空虚感はとても恐ろしく感じるが、実はハートにある輝かしい「空性」を指し示している。厚く積み重なった信念をはがしていけば、その輝かしい空性の体験へと導かれる。「すべてはひとつである」ということがそこで起こり、そして圧倒的な愛で満ちていく。(ステファン・ボディアン)

2.仏教でいう空(くう)が何を意味しているのか知らないけど、それを「から、0」と受け取ると、空虚さを感じる人は空を自覚しているのかもしれません。私は人生が虚しく感じる時期がまあ長く続いたけど、たゆまずに努力をしていたら、その空(から)の領域がいつの間にか喜びで満たされていました。

2-1.何よりも師を信じたのが良かったです。控えめにいっても、成功の99%はそれによります。

2-2.かつて紹介したことのあるサイババの御講話「神に特定の姿はない」https://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20020523.html この中にチド空間というのが出てきますが、これが空というものなのかなと思っています。

3.あるがままのもの―つまり空虚さと内面の不十分さ―を理解し、それとともに生き、完全にそれを理解しきったとき、創造的な「真の実在」と創造的理解力が誕生するのです。あるがままのもの―つまり空虚さと内面の不十分さ―を理解し、それとともに生き、完全にそれを理解しきったとき、創造的な「真の実在」と創造的理解力が誕生するのです。(Krishnamurti)

3-1.「酷いようだけど、劣等は劣等を真に自覚しないと克服できない」というようなことを河合隼雄先生がおっしゃっていました。引用リツイートはそのことにも関係すると思います。劣等を克服すれば、劣等・優等がない世界に住むことになるのではないでしょうか?

3-2.親鸞聖人の著作あるいは浄土三部経の中に「慚愧ざんき」という言葉があるようです。自らに対して罪を恥じることと他人に対して罪を恥じることらしいです。真宗ではときに強調される言葉です。卑下ではまったくなく自らをそのまま見つめる態度のこと。

3-3.本当に優れた人の前では自分が小さく見えるもの。私などは特にサイババのことを知れば知るほど、ある種の「劣等」を自覚したものです。しかしこれ(劣等の自覚)が簡単にできない人が多いということも知っています。

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合計8つの節からなっています。少し意味が取りにくいかもしれませんが許してください。8つの詩節のテーマは空性といっていいでしょう。インドの(特に古い)文献は散文ではなく複数の詩節の組み合わせで書かれていることが多く、少しばかりそれに似ているかなと思っています。世界で最も人気のあるSNSフェイスブックですが、唯一日本だけがフェイスブックよりツイッターが人気があるという資料を見たことがあります。俳句・短歌の文化の影響があるのだと思います。私もツイッターは短文で要点をまとめるところがおもしろいし、他の人のツイートも短文なので目を通しやすいと感じています。

 

先週は存在論的・鬱について触れましたが、今回は空性です。一方は存在で一方は空性です。仏教に有無に関する議論があるようですが、そのように対比される概念でしょう。しかしながら、私から見れば2つの概念はそれほど異なるものではないように思います。

 

上記2-2に出てくる「神に特定の姿はない」において3つの空間が取り上げられています。

sathyasai.or.jp

ブータ空間、チッタ空間、チド空間です。私の理解では、ブータ空間は私たちが日々目にする外界のことです。家や木々や空や車、川などを含む私たちが世界と呼んでいるもののことです。チッタ空間は心の世界でしょう。記憶や思考、識別などが行われる世界のことです。チド空間とは資料によればアートマのことです。このアートマは存在(サット)していますし、一方で至福でもあります。私は空虚さは空性の自覚ではないかと思っており、それは最終的に至福で満たされるものでもあるので、存在と空性との間には何らかの関係がありそうです。またアートマは存在ですが、それの空間の側面(=チド空間)が空性なのかもしれません。

 

ブータ空間の映しがチッタ空間であり、チッタ空間を映しているのがチド空間のようで、チド空間の映しはないようです。私たちが生まれて肉体と結びつくと、つまり外界=ブータ空間との接触が始まるとチッタ空間が活動を始め、それが人間の心を形作ります。その心を(ある程度)観察したり研究できるのはチド空間のおかげだといえます。ハンドルの通りに車が走るように、心の通りに人生はなります。チド空間は照覧者です。