愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

世俗と霊性

 

世俗と霊性といえば対立する語、対義語のようなところがあります。世俗という言葉で人がどのようなことを思い浮かべるかはそれぞれでしょうが、欲やエゴの世界であったり、義理や人情の世界であったりするでしょう。人は何か見えないものに縛られて不自由な生活を送ってもいるでしょうし、お酒やギャンブルなどのよくない習慣に入り浸っている人々を思い浮かべもします。一方霊性という言葉から人は何を思い浮かべるでしょうか? いえ、日本人のほとんどは霊性という言葉を知らないのが現状といえるかもしれません。霊性という概念は宗教性に近いのですが、それと少し異なっています。religiosity(宗教性)とspirituality(霊性)とを区別して、「私はspiritualな人間です」と宣言する人が多くなっている国もあります。ただ日本でよく用いられるスピリチュアルという言葉と霊性はこれまた異なるというのが私の見解でして、それを踏まえた上で、宗教性と霊性を区別して使い分ける程度に霊性という言葉が広まってくれればいいなというのが率直なところです。

 

ただ霊性というのは人によって定義は千差万別でもあります。私がこのブログで書いていることは、宗教の話題を取り上げることはあっても宗教が全般的なテーマであるとはいい切れないところがあるはずですし、また私が書いていることが世間でいうところのスピリチュアルでもないはずなのです。私は霊性に関するさまざまな側面について書いているつもりです。世俗に対しては霊性ですが、哲学の分類としては存在論を語っている面があります。それは言葉で容易に表現できないテーマであり、しかしそれを理解しやすくできないものかと今日は世俗との対比で霊性を論じたいと思います。

 

結論からいいますと、霊性とは純化された世俗のことです。人は日々さまざまな仕事に携わりますが、仕事を礼拝の精神で行うのが霊性です。一般に人の心はさまざまに汚染されています。目をつむった時に湧き出てくる思いは心の汚れです。霊性はそれらの汚れが取り除かれたときの心の機能のことです。清らかな池は池の底を映し出しますが、清らかな心は内なる真理を映し出します。霊性は世俗を手放して隠遁することではなく、世俗の中で質の向上を目指す生き方です。その過程で、欲望、怒り、嫉妬などの世界から愛、真実、平安の世界へ少しずつ移行していきます。欲望、怒り、嫉妬などにまみれて生きることが世俗なら、愛、真実、平安などを保って生きることが霊性です。世俗も霊性も共にこの世界の内にあります。

 

少し話はずれますがインドにミティア(真と非真が混じり合った世界)という言葉があります。このミティアという語はこの世のことを意味しています。この世は真実と非真実が入り混じっているという意味です。この世は夢のようだと人はいいます。晩年に近づいて人生を振り返ったとき、あっという間に時間が過ぎ去ってしまったように感じます。その時人はこの世は非真実であるように理解しています。一方で困難にぶち当たっている人はこの世がとてもリアルで、何とかしてその困難に立ち向かわなければならないと懸命になります。一日一日を過ごすことが大変です。その人にとってはこの世が実在=真実のように感じます。一般にこの世が夢のようだと思っていても不意打ちを食らって現実に引き戻されることがある一方、現実だと思っていたこの世がふと現実味のない一夜の夢のように思える瞬間というものがあります。どちらも正しいのです。この世は真実と非真実が入り混じったもの、それがミティアという言葉の意味するところです。映画のスクリーンとその上に投射される光(映像)に似ています。スクリーンは実在ですが、光(映像)は虚影です。スクリーン上で火事が起こっていても、実際には目の前で何も燃えていないわけですから。

 

世俗に生きる人というのは、映画のスクリーンの存在を知らずに映像ばかりに気を取られているといえます。霊性の生きる人は映画のスクリーンの存在を踏まえた上で映画が虚像であることを知って楽しんでいる人といえます。この世というミティアに生きていて、世俗に重きを置く人と霊性に重きを置く人は、世俗に生きる人はこの世が真実であると思い、霊性に生きる人はこの世がミティアだと知っている人です。

 

死は誰にでも忍び寄ってくるもので、遅かれ早かれ人はこの世と自分との関係を思わざるを得なくなります。世俗に生きる人はこの世こそが真実で自分の存在はちっぽけなものと受け取っているかもしれません。一方霊性に生きる人は、この世はちっぽけなもので自らの存在こそが真実であると受け取る傾向にあるような気がします。程度問題、傾向の問題ですが。

 

世俗と霊性は対立するというより、一つのものさしの両端という感じで、誰もがそのものさしのどこかに位置しています。しかしながら、人の運命として、誰もがいつかは自らの真実を知らなくてはならない、つまり霊性の方向を目指さなくてはならないと私は思うわけなのです。再度書きますが、それは世俗の純化というものであり、一般にその純化にまつわる活動が霊性修行spiritual exerciseと呼ばれているものとなります。