愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

文化としての身体感覚

 

「文化とはそれに携わることでこころが浄化される装置である」とどこかで書いたのですが、もう一つ気になる文化の定義があります。それは身体感覚が文化であるという考え方です。

 

私はかつて20年以上前になりますが野口晴哉(はるちか)先生が創始者である整体協会の整体教室に1年前後通ったことがあります。1年程度しか通っていないのですから、整体に関しては門をくぐったともいえないような者でして、多くを語る資格がありません。ただまったく整体について知らない者のような無知な状態ではありません。何となくこんなものかなという、そういう自分なりの体験が少しばかりあるのです。整体協会は体育団体です。医療には関わりません。しかしながら体調不良のものが整体協会に通うことはしばしば見られることでしょう。また整体協会とどのような関係があるかまでは知りませんが、野口裕之ひろゆき)先生が所長を務める身体教育研究所というところがあります。私が通っていた教室は、整体協会と身体教育研究所とが混在していたような感じでして、私は体調不良を何とかしてほしくて通っていましたが、身体教育に関してもごくわずかばかり触れていたことになります。野口裕之先生とも一度だけですが場を共にしたことがあります。

 

その教室に通っている際に『全生』という整体協会発行の雑誌が目に入り、時々借りて読んでいました。何冊か読んだのですが、今記憶に残っていて思い出せるのは野口晴哉先生がクラッシク音楽が好きだったことと、身体感覚が文化ではないだろうかという話です。身体感覚が文化であるということに関しては、そういう考え方もあるのだなと当時思いました。身体教育研究所はそういうものを深く探求しているところでしょうから、詳しいことはそこに問い合わせてみるのが一番でしょう。ただ今日は身体感覚が文化であるということに関して私が考えることを少し書きたくなったのです。

 

私は世界が自分の身体のように感じることがあると書いたことが何度かありますが、そういう身体感覚があったとして、その身体の内部ではいろいろなことが起こっています。痛みや喜び、何かが詰まったような感覚、光で満たされているような感覚、さまざまな映像が映し出されるような感覚などなどです。私はそれらの感覚は世界で起こっていることの一部が私によって感受されたものと受け取っています。世界で起こっていることはテレビの画面を見なくても、意味が曖昧にしろ身体で体験できているわけです。私はそう受け取っていて、おそらくは人それぞれに身体感覚というものがあって、だれもが同じく世界を体験していると想定しています。その感覚はさまざまでしょう。

 

さらに付け加えれば、身体感覚があったときにそれに対してどう振る舞うかという問題があります。日本では侘び寂びの文化といいますが、特定の身体感覚を愛でます。身体感覚が共有されているわけです。しかし共有されていない身体感覚の方が多岐にわたっており、個々人の文化の違いや家庭の文化の違い、地域の文化の違いとして現れます。惰性に従えば、私も自らの身体感覚に対して定型的な反応はできます。しかし私はそうしないこともあります。

 

oneness、unity(一つであること)を司っている神格であるガネーシャ神に関するガヤトリーマントラがあります。
エーカダンターヤヴィドマヘー
ヴァクラトゥンダーヤディーマヒー
タンノーダンティヒプレチョーダーヤート
(私は一本の牙と曲がった鼻を持つ神を瞑想します。どうかこの象の顔をお持ちの神様、私に知識を授け、私を啓発して下さい。)
私は日によって時間によって少しずつ身体感覚が変わりますが、時にこのようなマントラを唱えて、このような感覚をどう受け止めてどのように振る舞えばいいか教えて下さいと祈ることがあります。

 

時には、ある種の身体感覚に対してはそれが過ぎ去るのをじっと待つだけのこともあります。あるいは身体感覚がきっかけとなり自分が抱えていた問題の解決の糸口が得られることもたまにあります。基本的に不快な身体感覚の場合、それを解決する方向で対処を試みます。その多くは奉仕です。目の前に飢えに苦しんでいる人がいれば自分も苦しみ、それを解決する手段は目の前の人に食物を提供することであるのと原理は同じです。

 

つまり身体感覚特に意識されやすい身体感覚は文化でしょうが、それと同時に身体感覚への対処法も文化であるわけです。これが「身体感覚は文化である」ということの私なりの受け取りです。身体文化研究所との関わりは今はまったくありませんが、このようなことを考えている人はおそらく日本に何人もいることでしょう。私がことさら強調することではありませんが、このブログを読んでくださる方の中にはあまりなじみのない考え方なのではないかと思って紹介しました。最終的には感覚は浄化されるのが好ましいと思っています。Purity is enlightment.(純粋さは悟りです。)という言葉もありますから。