愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

日本文化の有効性

 

The first aim is to foster and cultivate Bharatiya culture. Let its validity be examined through actual living, and one's own discovery of its values; and communcated to others by those who have experienced the peace and joy derivable from it.
(第一の目的はバーラタ(インド)文化を育み、培うことです。その有効性を実際の生活、各人自らのそれに関する価値の発見を通じて検証し、そこから引き出せる平安と喜びを体験した人々によって(インド文化を)他者に伝えていくことです。)

 

このような文章を見かけました。私は日本人ですので、読んでいて「バーラタ文化」の箇所を「日本文化」に置き換えて考えてみたくなりました。私は日本文化を育み培っているでしょうか? 実際に日本文化を生きること、そこに内在する価値を発見することを行い、その有効性を確かめているでしょうか? 私は日本文化の実践から平安や喜びを引き出し、それを他者に伝えているでしょうか? 正直いってこのようなことを考えたことはほとんどありませんでした。私は文楽や歌舞伎、茶の湯、日本の楽器演奏、武術・武道、和服その他、いわゆる日本文化と呼ばれるものから縁遠い人間でしたから。しかしあえて書いてみようと思います。

 

一部の人が文楽や歌舞伎が好きであったり、抹茶を楽しんでいたり、和服を日常的に着ているのを私は知っています。しかしながら、もし彼・彼女らがそこから持続する平安や喜びを引き出していないのならば、単なる形式的な様式に時間を過ごしているだけであって、真に文化的であるとはいえないのかもしれません。消費文化に染まっている現代人の娯楽や社交の一つでないことを願っています。

 

私はわずかばかりは日本文化を生きていると思います。そしてそこから平安や喜びを引き出しています。列挙してみます。
1.親を敬ってきた
2.真宗から学んできた
3.もったいないの精神を培ってきた
4.歩行禅
今思うのはこれくらいです。

 

親を敬うのは日本に限ったことではなく、世界中で見られることです。私は親との間に軋轢がありましたが、それでもできる限りのことはしてきました。これらのことに関しては少しですがこのブログで書いたことはあります。両親をあの世に見送る中で、両親が少なくとも私に関して思い残すことがないだろう最期の言葉を交わしてもきました。完璧な子であったとはいえませんが、しかし今私は平安と満足に包まれています。

 

真宗からわずかばかりですが学んできたことはあり、それについてはこのブログで何回か書いています。信仰心を育むことができ全託に関する理解が進んだおかげで平安や喜びも得られています。他宗派もそうなのでしょうが、真宗も日本文化として価値を有しているのは間違いないでしょう。

 

私は幼い頃からそれほどは裕福でなかったので、もったいないの精神は長い間心がけてきました。なかなか物が捨てられないところはあります。できるだけ有効活用しようと知恵を絞ろうとします。それでも現代人ですので無駄があるのは間違いありません。もったいないの精神に関しては、2つの文脈から眺めることができます。一つは節制の面、つまり欲望に制限を設けることです。もう一つは、「急げば無駄が生じ、無駄が生ずれば人は不安になる」という言葉があるのですが、このことを私はかなり実感していて、つまりもったいない精神でいれるために、急がないという選択を意識的にしています。無駄がなければ不安がなく、つまりは平安なわけです。

 

歩行禅という言葉はいつ頃から使われているのか知りませんが、一つは峰入行の現代的解釈であるように思われます。つまり全国各地で峰入行が行われていましたが、その禅的効果に焦点を絞ったのが歩行禅という言葉です。私は山を歩くことがあります。歩くときはゆっくりとですが、比較的長距離の山道を歩きます。アスファルトの道は足腰に負担が大きいので今は長い距離をあまり歩きませんが、かつて気持ちが荒んでいた頃は無性に歩きたくなって街中をよく歩いたものです。禅という言葉が含まれているように、歩くことに精神を安定させる効果があるのは実感しています。

 

今取り上げた4点を私は日本文化と呼びたいのですが、それでもせっかく日本人として生まれたのですから、もう少しは日本文化を身につけたくはあります。私が今思っているのは、日本の経済思想史を学んでその一部を生活に取り入れたいなということです。生活の経済面です。いわゆる資本主義と異なった経済は可能であろうと思うのですが、そのあたりをごくごく小さな範囲(家計)で検証してみたくはあります。それは今後の課題です。