愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

妙好人とバクタ(帰依者)

今の時代にはほとんど知られていないように思いますが、かつて日本には阿弥陀仏の奇特な一群の信者たちがいました。一群といっても彼らは群れているのではなく、奇特な信者が各地に数多く存在していたということです。彼らは妙好人と呼ばれています。私は彼らの存在を知ったとき、非常に心が打たれました。 妙好人については、柳宗悦氏や鈴木大拙氏が多く述べられています。

浄土真宗中興の祖と言われている蓮如上人の時代に、赤尾の道宗という人がいました。彼が篤信のものだという評判が界隈に広まった時、一人の真言宗のお坊さんが、彼を試してみようと思って、たまたま草取りをしている道宗を見つけ、後ろからいきなり蹴飛ばしました。道宗はよろめいて倒れましたが、ただ「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と言って、また草刈を始めました。それで二度蹴飛ばしました。道宗はまた倒れましたが、なおも黙っております。それでお坊さんは「お前は他人に蹴られて、なぜ怒らぬのか」と尋ねました。道宗は、「いいえいいえ、私は人から蹴られるような悪者でございます。蹴っていただければ、それだけ前世からの悪業をいくらかでも償っていただけるわけで、誠にありがたく存じます」そう称名しつつお礼を言いました。このお坊さんは道宗の答えに大変心を打たれ、ついに真宗に帰したそうです。

また、因幡の源左という、これも有名な妙好人がいます。私は彼がことのほか好きなのですが、彼があるとき草刈をしていると、蜂に刺されました。そのとき源左は、「ああお前にも人を刺す針があったかや」といって、自分の心にある毒針のことを考え、痛いとも何ともいわず「ようこそようこそ」と言いながら草刈にいそしんだといいます。

妙好人たちは、自分の内なる悪を見すえ、一心に阿弥陀仏の慈悲にすがって生きていました。彼らに関するエピソードはまだまだたくさんありますが、彼らの一見愚かにも見える振る舞いの中に人は人間存在に関する真実を見出すことができます。

彼らと似たような話はインドにもあります。かつてチャイタニヤというクリシュナ神の帰依者(バクタ)がいました。彼がクリシュナの御名を歌いながら故郷の村を歩いていると、何人かの嫉妬深い人々が襲いかかり、彼の手から楽器を取り上げました。チャイタニヤはこの盗難をクリシュナからの恩寵と受け止めて、手を叩いて拍子を取りながら歌い続けました。「神よ! 私はあなたへの賛美を歌いながら、拍子を打つためにとあなたが下さったこの両手を使っています。楽器がなくても私にはできます。」すると悪漢たちは、チャイタニヤの両手を縛って手を叩けないようにしました。チャイタニヤは大声で言いました。「神よ! 私は声で歌のリズムを取りましょう。あなたの愛が私の調べとなりましょう。私はどんなヨーガも知りません。苦行をしたこともありません。私はこの世の富には関心がありません。私の最もすばらしい唯一の財産はあなたの愛です。その富を、私に授けてください」と言いました。

狂気の中で最もまっとうな狂気は神や仏への狂気だといいます。妙好人やバクタたちは実際に精神が狂っていたわけではありません。神や仏をいつも思い、人生を委ね捧げていました。お金やお酒、ギャンブル、特定の人間関係に執着はありませんでした。彼らは平安と至福のうちにありました。彼らの神仏への愛は、人間が抱くことのできる愛のうち、最も純粋なものと言えるでしょう。