サティヤサイババ御降誕95周年

 

これを書いているのは11月23日ですが、11月23日はサティヤサイババが降誕された日です。1926年11月23日に降誕されました。インドでは日本の数え年のように年を数えるようで、今年は御降誕95周年が世界各地で祝われています。11月23日は毎年盛大に祝われるのですが、私の気のせいか5の倍数の時は一層盛大な印象を受けます。この日は彼の存在によって人生に大きな影響を受けた人々が、純粋に彼の御降誕を喜び日になっています。正確にいえば彼の肉体が母親の母体からこの世に出てきたのは11月24日の早朝なのですが、インドでは日が明けるまで日付が変わりません。つまり24日に太陽が登って初めて24日になるのであって、現代の世界共通の時間の測り方でいう0時を超えていても日の出前は23日とされます。この記事がアップされる時間前後が彼の肉体がこの世に生まれでた時刻になります。

 

日本の大きな書店に行くと宗教やスピリチュアルのコーナーがありますが、そこにはさまざまなインドの聖者たちの本が並んでいます。しかし私がインドの方に直接聞いたところによると、現代インドで真に聖者の名に値するのはラマナマハルシとオーロビンドの二人だけだそうです。ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダは近代の聖者です。オーロビンドの言葉に次のようなものがあります。「1926年11月24日、クリシュナが人間の身体に降臨した。絶対的な力が地上の人々の思考を導き、心に不滅の炎を灯し、一般大衆さえもその声を聞くだろう!」この言葉がいつの時点でオーロビンドの口から発せられたのかは知らないのですが、もし仮にサイババサイババ宣言をする以前にオーロビンドが彼の降誕を知っていたとするならば、オーロビンドは真に聖者の名に値します。クリシュナは約5000年前に実在したアヴァターとされます。アヴァターの降誕を直接感知することのできる優れた人は極めて稀です。

 

サイババの名の由来については次の記事の中に書かれています。

サイババの御言葉  シルディサイの物語

サイババにはシルディサイババとサティヤサイババがいます。サティヤサイババサイババ宣言をした時、彼は自分がシルディサイババの生まれ変わりだといいました。シルディとは19世紀から20世紀初頭にかけてサイババが滞在した土地の名です。サティヤサイババのサティヤは真理という意味で、生まれた時に彼の肉体につけられた名前です。また彼の言葉がまさに真理であったので、その意味も含まれています。サティヤサイババは2011年4月24日に肉体を去りましたが、彼の生前中彼はプレマサイババとして生まれ変わりといっていました。それがいつになるのかは誰もわかりませんが、もうすでに生まれてきていると受け取る人もいます。ただし彼がプレマサイババ宣言をするのは20歳ころだということなので、プレマサイババのことを世間の人が知るのは早くても20年近く後なのかもしれません。仮に20年後とすると私はその頃まで生きていれば70代に入っており、プレマサイババの存在を知っても、サティヤサイババの御姿に愛着を持ち続けると思います。シルディサイババとサティヤサイババとプレマサイババは多少印象は違っていてもその実体は一貫して変化がないとされます。サティヤサイババの肉体に縁がなかった人でも、サイババへの関心を持ち続けていればプレマサイババの肉体に会い、その愛(プレマ)を体験する機会を得る可能性はあります。

 

サティヤサイババに関して知るには

www.sathyasai.or.jp

saireflections.org

media.radiosai.org

その他のサイトから情報を得ることができます。これらの公式サイトから情報を得るのが確実です。日本で出版されている書籍には優れたものもありますが、私から見て問題のある書籍もたくさんあります。書籍を読むならサティヤサイ出版協会から出ているものがおすすめです。

 

サティヤサイババは主にインドでアヴァター(神の化身)だとされていますが、このことに関して私は特にいうことはありません。彼が本当にアヴァターなのかどうかに関心がある人は自分で調べてもらいたいです。調べる際に参考になるのが先に挙げた公式サイトやサティヤサイ出版協会から出ている書籍です。短い時間で彼がアヴァターだと思うようになった人もいれば、長い時間をかけてそう思うようになった人もいますし、しかし彼をアヴァターだと思えない人もいます。日本では約30年近く前にサイババの名と姿がメディアで大々的に取り上げられましたが、日本人のほとんどは彼をよく調べることがないままで、アヴァターだと信じることがないのが現状です。若い人たちは彼の存在自体についてほぼ知らないはずです。

 

私はサティヤサイババの肉体の近くに行ったことはありません。つまりインドに行ったことはありません。いま日本で彼が本物だと信じている人のほとんどはインドに行って彼の肉体を見ているのではないでしょうか。彼の肉体の近くに行けなかったのは残念ではありますが、私は夢の中では幾度もコミュニケーションがあります。最近彼を知った人を含め、私と同じように彼の肉体に会えずじまいだった人は熱心に彼を求めれば夢で彼に会える可能性はあります。夢でなくても可能性がないわけではありません。肉体の彼に会わないのに彼を信じることのできる人は真に祝福されていると聞いたことがあります。そういう人はあまりいないようです。私は25年ほど前に彼の講話集の日本語訳を読んで普通の人間の言葉ではないと衝撃を受けました。他の聖者の本を読んでもそういうことは感じませんでした。誤解されては困るのですが、他の聖者は私とレベルにそれほど大きな違いがあるわけではなく、しかし彼の言葉はまったく違っていました。これは私の感性の問題なのでしょうが、それ以来私は彼の言葉から喜びや慰め、勇気などを得てきました。彼に関心があってももうすでに彼に会うことのできない人は、彼に会って彼から影響を受けた人より、彼に会うことのなかった私の方が参考になることが多いかもしれません。

 

この記事は私が彼の御降誕を喜ぶその気持ちの一端を表したものです。