愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

吉兆(シヴァ)を思う

 宗教に関わることの少ない日本人が神を思うにはなかなか難しい面はあります。神に対する概念が貧困だからです。しかし実際のところ、神を思うことは以外に簡単でもあります。どうすればいいかそれを知らないだけで、そのコツを少し学びさえすれば。今日は神を思う一つのコツのようなものについて書きます。
 
 私の場合神といっても他国のさまざまな宗教の神について関心があり、日本人にふさわしくないようでありながら、しかし多神教的な風土の日本の伝統においてはむしろ正統だと自覚しています。インドの神様シヴァは破壊の神様とされますが、シヴァの字義通りの意味は「吉兆」だそうです。吉兆の意味は「めでたいことが起こる前ぶれのしるし」だそうで、シヴァ神がめでたいことの徴であることをつまりは意味しています。
 
 実際にシヴァ神の御姿を目にすることはなかなか困難なことですが、しかしながらシヴァ神ご本人でなくとも、自分の身の回りに「めでたいことが起こる前触れ」を見るならば、それはシヴァ神を思うことといえなくもありません。
 
 たとえば、道を歩いていてお金を拾ったとすれば、多くの人はついていると思います。それを自分のものにするか警察に届けるかは別として。それは好ましいことの徴ではないでしょうか?
 
 たとえば、退屈していて何をしていいか思いあぐねているときに、ずっと以前に関心をもって買った本が目の前に放ってあったならば、もしかしたらそれは好ましいことの徴ではないでしょうか?
 
 たとえば、仕事をしていて、顧客の方から突然問い合わせがあったとしたら、それが取引につながるかどうかは別として、それは好ましいことの徴ではないでしょうか?
 
 たとえば、家の庭に植えた柿の木が実をつけ始めたとしたら、それは今後数十年にわたる収穫の前触れとして、好ましいことの徴ではないでしょうか?
 
 たとえば、たとえ見知らぬ人であったとしても誰かの笑顔を目にしたならば、それは世に幸せが住んでいることの徴として、好ましいことの徴ではないでしょうか?
 
 たとえば・・・。そう、目の前に見えることはすべて、見ようと思えば、何か好ましいことの到来を告げる徴と見えなくもありません。つまり、もし目にするものの内に、「吉兆=何か好ましいことの到来」を見るとするならば、それはとりもなおさず神(シヴァ)を思うこと。神様を思うことはさように容易ではあります。
 
 ゴミを思うものはゴミになり、神を思うものは神になるといいます。そうであるならば、できるかぎり神を思いたいものです。私たちが何か好ましいことの徴を見続けるならば、私たち自身がその好ましい徴そのものになりえます。