御名2

 前回とのつながりで御名についてです。神を思うよすがが御名なのですが、インドではヴィシュヌ神シヴァ神など主な神様には1000ほどの名前があって、それを見ると、インド人がどのように神様を思っているか興味深いと共に、その英知に驚かされます。
 
 たとえば、「食物」は神の御名です。「食物を食べる者」も神の御名です。あるいは「食物を与える者」も。
 
 現代の日本に生きる者のほとんどすべては日々食べるものがあることでしょう。目の前に食べ物が現れたならば、インド人の伝統では、その食物は神ご自身です。身体に必要な栄養をとるために食物をとるだけでなく、神ご自身を自らの内に取り込むためにその食物を口にしていることになります。
 食物を食べる者、つまり私自身も神です。「いや私は神ではない」と思う人がいたならば、あなたではなくあなたに内在する神様が食物を摂っていると理解してもいいと思います。神様は食事を摂るのです。
 食物を与える者も神です。どうやって私たちは食物を手にするでしょうか? 幼い子どもなら親が準備します。ならば親は神様です。大人は食物をスーパーなどで買ってきます。流通を日々支えている人々は私に食物を与えてくれるのですから皆神様です。食物を買うお金を与えてくれる勤め先の会社を支える人々も神様です。野菜を作る農家の方々も同様に。
 
 日々の食事を摂るという一つの営みにおいて、神への思いに浸るきっかけがこれほどあります。
 
 食物を目にして神を思い、食物を摂る行為に神を思い、食物を得る過程に神を思い、このように神を思う作業を日々積み重ねることで、単に肉体の欲求を満たす栄養をとる現代人の行為が、神に浸りきる神聖な行為へと昇華されていきます。
 
 バガヴァッド・ギータの中で、クリシュナ神は「私はヤグニャ(供犠、犠牲、儀式)の中で、ナーマヤグニャ(御名を唱えること)です」と宣言しています。ヤグニャとは、自らにある低い性質を取り除いて高い性質に置き換えることでもありますから、御名を唱えることで人の意識のありようが進化することをクリシュナはほのめかしています。
 
 前回も書きましたが、ゴミを思うものはゴミになり、神を思うものは神になります。神を思って何になるという人もいるでしょうが、それではゴミを思って何になると問われたとき、その人はどう答えるでしょうか?
 
 1000ほどもある御名の中から、自分のお気に入りのもの二つ、三つ、あるいは一つでも口にし思い続けるだけで、おそらくは神の1000ほどの特質すべてを身につけることができます。
 
 つまりは、たとえば自らが「宇宙そのもの」になり、たとえば自らが「富そのもの」になり、たとえば自らが「すべてのものの源そのもの」となり、たとえば自らが「雄弁そのもの」となり、たとえば自らが「時間そのもの」になり、たとえば自らが「道そのもの」になります・・・・・・。