愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

人間のレベル

現代社会においては、人はさまざまに評価されます。学歴で評価されたり、財産で評価されたりします。人はそれぞれの価値観によってさまざまなものや人を評価しています。

私は霊性に関心があるのですが、テレビやさまざまな書籍で喧伝されている、いわゆる精神世界やスピリチュアル世界にはほとんど関心がありません。私のいう霊性とは愛のことであり、人間の成長に関することであり、そのようなことについて理解を深めるために、さまざまな聖典の学習や愛の実践を重視しています。

精神世界の本の一部には人間の進化や霊的レベルについてさまざまに書かれています。私はそれらの真偽について確認できないので、肯定も否定もできないのですが、ただ私には私の見解があります。

タイティリヤウパニシャッドの中に「アーナンダヴァリ」というものがあります。ウパニシャッドは神の息吹といわれるヴェーダのエッセンスですが、このアーナンダヴァリはアーナンダ(至福)について述べてあるウパニシャッドです。この中で至福には11段階あることが記されています。最も低いレベルの至福は、この世のすべての富を含む財産をもち、若さと活力に溢れた人の体験する至福です。つまり若き王様が物質的なものや肉体から得ることのできる喜びと考えていいでしょう。これが至福の中で最も低いものとされます。最高のものはこの宇宙を創造した神(ブラフマン)の至福です。

このウパニシャッドを最初に知ったとき、なぜ11もの至福の段階が述べられているのかその意味がわかりませんでした。しかし最近私は、この至福こそが人間のレベルを表すものではないかと思うようになってきました。人間のレベルは、富や知性や家柄などによるのではなく、彼が体験した至福のレベルのではないかと。アーナンダヴァリは人間が目指すべき至福を記述しているのではないかと。

インドの聖者の中にはただ座って微笑んでいるだけのように見える方がいます。インドではそのような方を尊重する伝統がありますが、日本人はそのような方を見てもなかなか理解できないでしょう。そのような聖者達は、おそらく凡人には理解することのできない至福を静かに味わっているのであって、その至福に到達する道を知っています。彼らの体験する至福は言葉や心での理解を超えています。

人間は結局何のためにあくせくと生活を営んでいるのでしょうか? 結局は満足つまり至福や喜びのためではないでしょうか? 私はえも言われぬ至福というものに関心があり、それを体験してみたいと思うことがあります。そして最近、それは霊性(あるいは人間性)の向上によってのみ可能であることに気づき始めました。霊性(あるいは人間性)の向上を図る尺度は彼の体験する至福であるように思います。