愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

心を耕す

先日人と話をしていて、どうしたら夫においしく料理を食べてもらえるかということが話題になりました。私は女性の方々が話されているのを聞いていました。相手の口に合うように一生懸命作っても、いつも何か文句を言われるそうです。夫は文句を言いながら全部食べているのだから、結局はおいしいのだろうと思いつつ、相手のためにいろいろ日々工夫をしているそうです。しかし、注文が多くいつまでたっても文句を言うことをやめない場合、夫にきちんと道理を言い聞かせたほうがいいのではないかという意見も出ました。そのとき、「夫にどうしたらおいしく食べてもらえるかいろいろ“戦略”を考えて(作戦を練って)いると、(自分の)心が耕されていくのですよね」という意見が出ると、皆は笑いに包まれ、その後話題は移っていきました。

私の親も少し難しいところがありました。そして難しい親の機嫌を損ねないように、かつ嘘をついたりせずに私の主張を認めてもらわなければいけない場合が結構ありました。若い頃の私は短気で、上手に親を納得させることができずにしびれを切らして怒りをあらわしたこともあったのですが、長じてさまざまに作戦を練ることを覚え、地道な苦労を重ねたことで私の心も随分耕されたように思います。会社などでの人間関係も同様ではあるのですが、家族関係においては各人の素の姿があらわれるので、一層難しい点があります。家庭はある意味修行の場です。

また世の中には、少数かもしれませんが、神に呼びかけられた人、神に引き寄せられた人がいます。彼、彼女らは神への道の巡礼をある日始めてしまうのですが、その道の途上において多くの困難が待ち受けています。神はテストがお好きな方ですので、気に入った人には特別な困難を次々に与えます。神を求める彼、彼女たちはその困難を乗り越えるためにどうすればいいかと幾度も幾度も思い悩みます。このような機会を通じて彼、彼女たちも心を耕していきます。

耕された心に愛の種を蒔けば、それは成長して幸福や英知という穀物、作物をもたらしてくれます。苦労に苦労を重ねても、愛という種を心に蒔きそこねてしまえば、人生は悲嘆で終わってしまいます。苦労しつつも愛を忘れなければ、それは静かに身に染みいるような味わい深い幸せへと結実します。本当に気の合う配偶者と人生を共にすることができれば、それは確かに人生で経験する大きな喜びのひとつでしょうが、少しくらいわがままな配偶者や親と一緒になっても、私たちは幸福を味わうことができます。それが人間としての成熟です。

長年にわたって心を耕してきた人たちが世の中にはたくさんいます。彼、彼女らの多くは社会的には無名ですが、深い知恵(=英知)をその身に備えています。お寺に行くとわかると思いますが、お寺には年配の方が多く来ています。彼、彼女らは聖典の言葉の意味がわかるようになるのです。