愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

叡智を求めて

人の人生はさまざまだと思います。多くの人がうらやむほど恵まれた人生を過ごす人もいれば、苦難や困難の連続で生活にも困窮を続けるような人生を過ごす人もいます。これは一体どういうことなのかと若い時期考えたこともあります。

 私の前半生も困難や苦難続きでした。私の親も早くから父親を亡くし、一生にわたって病気に苦しめられ、人間関係の面においてもいろいろ辛いこと経験してきました。そのような環境が人を信仰へと導いたのだろうとは思いますが、今日は信仰とは別のことを書きたいと思います。

 いったい人生の困難はなぜ与えられるのでしょうか。困難は何をもって終わりを告げるのでしょうか。環境というものは、私たちが肉体をまとう前も肉体から去った後もあります。私たちがこの世という環境の中に投げ込まれるのは何を目的としてでしょうか。私たちの多くは、人生について問うてきました。多くの探求が、多くの賢者たちによってなされてきました。この探求こそが、人類の歴史であるとさえ言えます。

 私はありとあらゆる経験、体験は叡智を持ってその意味を獲得すると考えています。叡智とは単なる知識ではありません。万巻の哲学書や宗教書をあさっても、科学の最新の知見を集めたとしても、それは叡智ではありません。叡智を獲得した人の言葉であってもそれは読む人にとっては叡智ではありません。叡智とは知識や情報(information)ではなく変容(transformation)の結果としてもたらされるからです。叡智は知識や情報というレンガで組み立てられた建築物ではありません。それは、人間が聖なる教えを実践した結果としてもたらされる変容を通して獲得される知恵です。

 日常生活を営んでいくために最低限の常識や知識は必要ですし、職業生活を営んでいくための専門知識もある程度必要でしょう。しかし、それとともに、人間を変容へともたらす知識とその実践への促しがより必要とされます。人間を変容へともたらす知識の多くは諸宗教の諸聖典の中に含まれています。それを読み取る力がなければ、聖典は時代遅れの化石ですが、読みとる力を持つ人にとっては、それは砂漠の中で水をもたらすような存在です。

 叡智を獲得することができさえすれば、すべての困難や苦難が幸福な思い出として残ります。叡智を獲得することができさえすれば、人は大いなる平安を味わうことができます。叡智を獲得することができさえすれば、人生は軽快なものとなります。私たちの担っている荷物(困難や苦難)は叡智の炎で焼かれてしまい、灰と化します。

 人生の押し迫った晩年に至るまでにこの叡智が獲得できなければ、その人生は失敗だったと言えるかもしれません。人間の向上はこの叡智によってはかられます。学位や富や権力とは関係ありません。私たちは、悪徳(怒り、貪欲、欲望、嫉妬、憎悪等々)を手放すこととすべての存在への愛の実践を通じて自らを変容させるように努め、叡智の獲得を目指すべきだと思います。