今年前半の目標

 

新年明けましておめでとうございます。今年は2025年で21世紀の4分の1を記念する年になります。日々新たに、年々新たに生きたいものですが、今年も新鮮な気持ちをもって歩んでいきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

 

今年最初の記事になりますので、今年(前半)の目標を掲げたいと思いますが、その前に昨年(後半)の目標を振り返りたいと思います。昨年(後半)の目標は1.purity, patience, perseverance(純粋さ、忍耐、やり通すこと)と2.中道(The middle path)でした。絶えずこれらを憶念することが目標でしたが、常なる憶念は難しくても、概ねこれらの指針から外れずに生きることができたと思います。それよりも11月、12月に大きな取引のことが頭を占め、それにどう対処するかを考える時間が増えました。また昨年前半の目標であった「働きなさい。なぜならあなたは働くことを愛しているからです。」をしばしば思い起こして過ごすこともありました。

 

さて、今年(前半)の目標です。今年前半の目標は満足にしたいと思います。満たされているということです。自分が満たされているか満たされていないかは、自分でコントロールできない面も少しはあるかもしれませんが、しかし一方で心の持ちよう、受け取り方の問題でもあります。資産が数百億ある人と資産が数百万円の人を比べたとき、それは1万倍の違いがありますが、しかし資産が数百万円の人の方が満足しているケースはあるでしょう。満足とは存在が満ちているということです。心が外に向いてばかりいて常に何かを求めているのとは逆のありようです。満足は外なる条件にはほぼ依存しません。

 

師であるサイババは『神問神答』という本でマントラに関して次のように述べています。
「サーダカ(霊性修行者)が初めにプラナヴァと共にパンチャークシャリ(5つの音節)かアシュタークシャリー(8つの音節)を繰り返すなら、より効力を得ます。そのようにしてある程度の長さを続けたら、言葉すら放棄して、音を通じて描写された御姿に集中し、マントラをデヴァター(神)自身に変容させることができます。そのためシュルティ(ヴェーダ、天啓経典)は、「ニシャブダ ブランマー ウッチャテー」―「ブラフマンは静寂、すなわち音なきもの」と述べているのです。」(p107)

 

マントラは音ですが、それをそれなりの期間唱えていたら、それはそれによって描写された御姿になるとあります。私にとって満足はある意味こういう世界のことです。御姿は静寂であり、つまり心がざわついていなくて、心がざわついていないということはつまりは心が外界に向いていない、つまり欲望がないということです。欲望とは心が外界を向いてさまざまな形をとり、外界との接触を求めることです。それ自体が満足の欠如を示しています。マントラを唱えていれば、外界へと通じる穴が塞がれて、満足を得る助けとなるのだろうと思います。

 

ハートから湧き出てくるものがあります。それが湧き出るままにあふれさせていれば、自分という枠を超えてそれは世界を満たしていきます。それに浸っていることは外界との接触が絶たれることでもあります。それもまた満足です。客観的に見て物質的に豊かか貧しいかとは関係なく、そのような心的状態を維持することが目標です。実際のところ、私はどちらかといえば物質的に貧しい面があります。しかしそんな私でも、身の回りにあるもの、私が所有していて私の管理下にあるものを十分に活用しているかといえば、そうではありません。自分の能力を超えたものが既に与えられています。私はすでに豊かなはずなのです。

 

マントラを唱えることは長年にわたる課題であり、それが満足という徳を育むのを助けてくれるならば、それを意識した生活を送っていきたい。それが今年(前半)の目標になります。ヴェーダマントラに限らず、何らかの命題を熟慮することで何らかのヴィジョンが得られるならば、それも好ましいことで、それも満足を与えてくれることでしょう。マントラの憶念と満足の育成という一石二鳥を目指していきたいと思っています。