日本文化のマントラ化

 

先週「マントラは存在の家」という記事を書きましたが、その中で日本文化をマントラで再編するということに触れました。今日はそれにまつわることです。

 

その前に霊性に関することで一般論を少しばかり書いておきます。私たちの多くは小学校、中学校、高等学校と12年間は日本語のことや数学、科学、社会、家庭や諸実技のことについて学びます。12年間学び続けるというのは考えてみれば結構な長さの時間です。12年間ほど学んで何とか社会に出る準備が整います。人によっては大学や専門学校、大学院などでさらに学び続けます。トータルの学習期間が20年となることもあるでしょう。現代は諸知識が必要なことが多く、皆がそれを当たり前と思っています。さて一方霊性に関してはどのくらいの期間学べばいいのでしょうか? 私の見解では一生です。学校で知識を学ぶのは20才前後までとしても、霊性に関しては同じく幼い時期から学びはじめて、しかし70、80才になっても学び尽くせるものではないとされます。退職して60歳か70歳くらいから学び始めてもどれくらい満足の行く学びができるかわかりません。私が霊性について学び始めたのは約28年前です。霊性の大まかな概略をつかみかけるまで20年近くかかっています。個人的な体験からいえることは、科学や言語の知識を学ぶのと同じ位の時間が、霊性の基礎を学ぶのに必要です。人によっては霊性の領域において特に優れた素質を備えた人がいるかも知れません。そういう人は少し成長が早いこともあるでしょう。急ぐ必要はなく、地道に歩めば必ず納得のいく成長が得られます。それを数年で結果を得ようとすれば、結局の所いわゆるスピリチュアルな上っ面なものしか身につきません。

 

マントラの力はどのようなものでしょうか? 南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経は共にマントラです。漢字の字数ですとそれぞれ6字、7字のごく短いマントラです。しかしながら、この短いマントラから一宗派ができあがりました。マントラの偉大さがわかるというものです。ごく短いマントラを他にも紹介すれば、日本語や神の御名ではないのですが、「I am.」「I am I.」「so ham(私はそれ)」「watch(これについては以前このブログで取り上げたことがあると思います)」などがあります(この内いくつかはサイババが人に与えたマントラです)。どれも素晴らしく力を持ったマントラでしょう。

 

特にインドで有名なマントラにガヤトリーマントラがあります。ガヤトリーマントラヴェーダの母といわれているらしく、インドでは8歳だったか9歳ころにガヤトリーマントラを授けられてそれ以後ヴェーダの学習が本格化するようです。今ではガヤトリーマントラは世界中に広まり、多くの人が唱えています。日本人に最も有名なインドのマントラといえばやはりこのガヤトリーマントラなのではないでしょうか? ガヤトリーマントラは唱える人の意識をきよめ、知性と識別心をもたらしてくれます。マントラについての理解を深めようとする人にはヴェーダの母であるガヤトリーマントラは不可欠といってもいいほどです。

 

A pure thought from a pure heart is better than a Mantra.(Baba)(清らかなハートからくる清らかな思いはマントラよりも好ましい。)という言葉がありますが、清らかなハートから湧き出た清らかな思いが厳密に(ヴェーダの)マントラではないとしても、しかし(ヴェーダの)マントラより好ましいというわけです。

 

私たちは日本で生まれ育ち、好む好まざるとに関わらず日本文化に触れながら生きてきました。意識的に日本文化の特定の領域を深く学んだ人もいるかも知れませんし、そういうことのない人も多いでしょう。しかしながら、すべての日本人に程度がさまざまにしても日本文化の蓄積があります。そういう状況において心(ハート)の清らかな人が日本文化に関することで清らかな思いを抱いたとしたならば、それは取りもなおさず日本文化をマントラ化したものだと主張し得ます。意識的に日本文化を学びそして生きてきた人が、心(ハート)の清らかさを維持することにも多大な力を注いでいたならば、その人の語る思いには耳を傾ける大きな価値があります。牛乳をかき混ぜているとバターができあがるように、その人のハートからマントラが生じたのです。