恩寵あるいはファンタジー

 前回取り上げた詩

 鳥はあなたのもとに 翼は私のもとに
 足はあなたのもとに 道は私のもとに
 目はあなたのもとに 形は私のもとに
 物はあなたのもとに 夢は私のもとに
 この世はあなたのもとに 天国は私のもとに
 このように私たちは自由であり
 このように私たちは結ばれている
 このように私たちは始め
 このように私たちは終わる
 あなたは私の内に 私はあなたのうちに(ババ:「プレーマダーラ」P11)

に関してもう一点書いておきたいです。

 人間は鳥のようなものとして生まれてくるのですが、翼を与えてくださるのは神。同様に、足に道を、目に形を、物に夢を、この世の生活に天国を神様は与えてくださいます。

 ただ翼があるだけで、つまり飛翔する能力があるだけで、それがどのような能力であっても、自らが望む能力でなくとも、恩寵と受け取っていいのではないかと。飛翔するといっても、スズメと鷹との違いのようにさまざまです。

 それが希望するものでなかったとしても、目の前に道があるのがはっきりとわかるならば、それが自分が見るつもりのものでなかったとしても、確かに自分の目が何かの形を見ているならば、手に何かの物を持っていて、それがある夢をかきたてるならば、この世において苦楽の打撃に耐えながらも天国(あの世)を感じることができるならば、それらすべてが仮に自分の願っていたものでなかったとしても、すべて間違いなく神の恩寵(神からの贈り物)といえるのではと感じます。

 またこの恩寵と呼べるものは、1ヶ月前か2ヶ月くらい前の記事で少し触れたファンタジーというものにも近いのかもしれません。翼を感じること、道が目の前にあること、(もしかしたら自分にしか見えない)形を感覚できること、夢をかきたてられること、天国が実感できること。ファンタジーといわれるものの正体はこのことなのではないでしょうか? そして過去の記事において、ファンタジーがあって初めて人は現実を理解できるとの言葉を引用しましたが、まさに神と神の恩寵に生きることこそがリアルそのもの。

 いわゆるファンタジー文学は、夢や形、道を与えられた作家が想像とは異なるそれを上手に記述したもの。インドの二大叙事詩ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」などはその名の通り叙事詩なのですが、一方である種のファンタジーなのかもしれません。神話一般も。