鳥はあなたのもとに

 鳥はあなたのもとに 翼は私のもとに
 足はあなたのもとに 道は私のもとに
 目はあなたのもとに 形は私のもとに
 物はあなたのもとに 夢は私のもとに
 この世はあなたのもとに 天国は私のもとに
 このように私たちは自由であり
 このように私たちは結ばれている
 このように私たちは始め
 このように私たちは終わる
 あなたは私の内に 私はあなたのうちに(ババ:「プレーマダーラ」P11)

 この詩を始めてみたとき、心の奥を掻き立てるものがあったのですが、しかし読んでみてもよく内容が伝わってきませんでした。10年以上経ってようやく、自分なりの理解が少しばかりできるようになりました。

 「私」は神という言葉に置き換え、「あなた」は自分のことと理解していいと思います。

 「このように私たちは自由である」
 普通の人の理解する自由というものは、翼を与えられていない鳥、道を与えられていない足、形(見るもの)を与えられていない目、それを見ても夢をかき立てられることのない物、天国を与えられていない唯物的なこの世の生活に与えられた自由のことではないでしょうか? ある種の無知=暗闇の中に生きるごくごく限られた自由。
 しかし翼を与えられてこその鳥、道を与えられてこその足、形を与えられてこその目、夢を与えられてこその物、天国を与えられてこそのこの世です。

 「このように私たちは結ばれている」
 人間と神とのつながりというものは、鳥と翼の関係、足と道の関係、目と形の関係、物と夢の関係、この世と天国(あの世)との関係のようなもの。鳥、足、目、物、この世にとって、翼や道や形、夢、天国(あの世)がないことは、存在意義にかかわります。神が鳥に羽ばたけるようにし、神が足に歩む道を与え、神が目に形(感覚世界)を与え、神が物に夢(それの活用)を与え、神がこの世に天国(目的)を与えます。人間だけでなく、神だけでなく、人間と神はいつも手に手を携えていてこそ。

 「このように私たちは始め」
 幼少時から成人してしばらくの間、私は羽ばたこうとしても羽ばたけず、道を歩もうとしても歩めず、世界を楽しもうとしても楽しめず、夢を見ようとしても夢見ることができず、この世的な唯物的な見方の影響を受けてきました。それは私の人生の初期の状況であったといえます。

 「このように私たちは終わる」
 鳥が翼を与えられ、足が道を与えられ、目が形を与えられ、物が夢を与えられ、この世が天国を与えられ、(可能な限り喜びに満ちて)懸命に生きていくのが成人してから年をとって衰えていくまでの人生に思います。そして年をとったある瞬間、ふと幼少期のように、翼のない鳥、道のない足、形のない目、夢のない物、天国のないこの世に再び思い至る。そのときに心を満たす喜びがあるならば、自らの内に神を見つけることができていたならば、それはおそらく人生のふさわしい終え方。この世への執着や衝動から解放されて。

 「あなたは私の内に 私はあなたの内に」
 これは最高の哲学であり、成就でもあると思うのです。