辰巳芳子さんの記事に思う

 新聞に料理研究家の辰巳芳子さんのインタビューが載っていました。『台所から考える「いのち」』という題で、今の日本の政治の状況や食について語っていました。すでに90歳で、私は知らなかったのですが、「いのちのスープ」運動で知られている方のようです。この方は結婚して20日で夫を戦場に送らなければいけなくなりました。夫はそのまま戦場で亡くなりました。結納の直後に相手のもとに赤紙が届いていたのを知っていたので、結婚を控えることを先方に申し入れた父親に従ったほうがよかったのではないかと、夫の死後何年も何十年も考え続けたそうです。そして75歳になって夫の死んだフィリピンを初めて訪れ、その時やっと結婚してよかったのだと心の中から納得のいく結論に辿り着いたそうです。

 彼女は「愛とは何か」、「人はなぜ食べるのか」というように簡単に結論の出ないような、しかし確かに自らの身に降りかかった難題をとことん考える方のようです。その点は私も似ているので、彼女に関心をもちました。彼女は「今の人は政治家も学者も記者も考え抜くことをしません」といいます。彼女は菜園で人生を考え、台所で国のあり方を思う生活を重ねてきました。手と体は自らの生活の場に置きながら、頭の中では絶えず思索を重ねてきたのでしょう。私も思索にのめり込むことがあるので多少彼女を理解することができます。

 私は長い期間考えてきましたが、深く考えること、物事の本質に深く切り込むこと、心の底から納得するまで考えぬくことがどれだけ大変なことかわかっています。あまり度を越すとノイローゼに近い状態になってきます。体力(精神力)も必要です。しかも問題によっては何年、何十年も結論の出ないことがあります。そういう長い期間にわたって考え抜くことのできる人はそうはいません。ほとんどの人は自らの中途半端な思考と妥協します。結論が出る保証はないのです。また思索はエゴやプライドを育むことも多くあります。だから私は考えてばかりいることを人に勧めません。行為と体験を通じてさまざまなことを学ぶ道を勧めます。

 しかしながら私がそうであったように、思索を好む人もいます。その方にお伝えしておきたいことがあります。それは、思考の目的は何か存在しないものをあるように見せかけることではなく、重要でないもの、価値のないもの、本質的でないものを識別し、手放すことにあるということです。自らの思考によってないものをあるものにしようとすると、それは主義になってしまいます。民主主義、自由主義社会主義共産主義、そういうようなものです。今も何かの主義のたぐいを求めて思考を重ねる人はたくさんいます。そうではなく、本質的でないもの、価値のないものを手放すことで人生の無駄が除かれ、残ったものの中に価値や本質、そして真の自己を容易に体験ことができるようになる、これが真実だと思います。自己実現の前段階に自己犠牲が求められるように、不要なものを切り刻みそして手放すための刃として思考はあります。

 辰巳さんはすでに日本の底が抜けたとおっしゃいます。このままでは大変なことになるという危機感をもっています。私も多くの分野で取り返しのつかない変化が起きていると時に感じます。底が抜けたというのは、もうこれまでと同じことをしていては混乱・破壊に至るということですが、自由で柔軟な発想をもった人が状況に適切に対処するならば、何か新しいものが生まれる可能性もあると思うのです。今日本だけでなく世界はそういう危機、場面に直面しています。

 辰巳さんはもう90の年ですが、これから必要なのは彼女のような「新しい人」です。生活の美しさが世界を荒廃から守ってくれます。「真実を実践することが善であり、その結果が美である」といいます。真善美に関する美しい定義です。生活が美しいならばそれは真実と善良さの結果であり、真実と善良さを守る人を世界は守ります。汚染された世界で生活の美を求めていけたらと思うのです。