法然上人の和歌

月影の至らぬ里はなけれども ながむる人のこころにぞすむ―法然上人

私はこの歌が好きです。月は日々満ちたり欠けたりしていますが、新月のとき以外はいつも夜空を照らしています。私は月を眺めるのが好きで、昼間の喧騒から解き放たれ、静かな夜にひっそりと照っている月を見ると心が落ち着くのです。しかし、毎日夜空を照らしている月を気にしない人にとっては、月はないに等しいものかもしれません。

法然上人は、阿弥陀仏の慈悲を月影にたとえています。しかし阿弥陀という名にこだわらなくても構いません。とどのつまり絶対者の慈悲はすべての里、すべての人々を照らしているということが大切なのです。しかし、それを知る者は、神仏を信愛するものだけなのかもしれません。

神や仏の慈悲や愛は、千の母の慈悲や愛に等しいといわれています。この世の人間にとって最もいとしい人間は母でしょうが、神仏の慈悲はそれをはるかに超えています。それは全人生にわたって、いや生まれる前も、死んだ後もずっと私たちを照らしています。

母は私たちの面倒を見てくれました。母の愛は目に見えませんが、母の姿や言葉は目に見え、耳に聞こえるものでした。神や仏の姿は目に見えません、耳で感じることもできません。頭で考えてもそれは思議を超えたものです。私たちは目に見えない母の愛を感じることができました。それと同じように、神や仏の姿を目にすることができなくても、神仏の慈悲や愛を感じることはできます。

魚は水の中に生きています。魚は水から出されると苦しんでじきに死んでしまいます。それと同じように、私たちは日々生きていますが、それはあまりに当たり前すぎる神仏の慈悲に包まれているからなのです。仮に神仏の慈悲から見放されたとすれば、私たちは一瞬でさえ生きることはできないでしょう。

私たちはただ神仏の慈悲の海にいこって、たがいに助け合い、喜びの人生を送るだけでいいのです。