思考を鍛える

 今日のタイトルは少し仰々しく「思考を鍛える」としましたが、私が自分なりの思考回路を作るためにどのようにしてきたかについて書きたいと思います。

 「きちんと書かれたテキスト(古典)を一字一句丁寧に読み込んで、著者のプロセスを追体験することによってしか人間の思考力は鍛えられない」(木田元
 木田元氏はハイデガーや現象論に関する著作の多い哲学者で、私は多分何冊か手にとってぱらぱらとめくったことがあるくらいですが、彼の本の内容はほとんど理解できなかった覚えがあります。

 上にあげた木田氏の言葉には一理あると思います。私は若いころ人に古典を読みなさいと勧められて、わからないままに古典を手に取って読むことが多くありました。主に岩波文庫から関心のあるタイトルのものを買って読んでいました。おもしろい内容の本にもたくさん出会いましたが、知人に岩波文庫の本をよく読むといったとき、あきれられたこともありました。

 古典は時の評価に耐えてきたもので、人々による多様な理解を許す懐の深さをもった書物です。専門的な本になるとわからない言葉が文章の半分近くを埋めることもあり、きちんと理解しながら読もうとすれば、1時間で1~2ページしか読み進めることができないこともあります。しかし、著者の思考プロセスを理解しようと格闘する過程を通じて、今までの自分の思考プロセスと異なる考え方があることに気づくことができます。それによって、自らの思考の幅が広がります。それゆえ私も、本を読む時間のある若い人には、多少難しくても古典を勧めたいと思います。

 20歳を少し過ぎたころ、あるいは30歳の手前までは、古典に親しんでいましたが、私の思考が飛躍的に柔軟性を獲得しだしたのは、師の本を読むようになってからです。師は霊性に関する文献をたくさん残しており、簡単な言葉を使っていながらも、その内容を理解するのが最初ほとんど困難な状態でした。しかし倦まずに読み続けていくうちに、その内容を理解することができるようになってきました。

 霊性の本は抽象的なところがあって、文字だけをたどっていてもなかなか理解できません。日常生活の中における体験を通じて、霊的な文献をより深く理解できるようになります。さらには、そこに書かれている教えを実行すれば、次第に生活や自らの内面に変化が生じてきて、より文献の意味を味わえるようになります。

 私はサイババの文献によく目を通しますが、仏典でも聖書でもバガヴァッド・ギーターでもいいと思います。(聖書やバガヴァッド・ギータは現代の日本人でもわかりやすい言葉で訳されていますが、仏典の中には現代人にはわかりにくいものがあり、そういうのは避けて現代語で書かれたものを読み込むのがいいのではないかと思います。)

 一つ一つの言葉がどのようにつながっているかをたどることは、すなわち脳の回路を作り上げることです。真に価値のある霊的文献を理解しようとする中で、私たちの思考回路はバランスの取れた豊かなものとなるようです。