愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

「神」、「神のもの」

日本に住むほとんどの人にとって、霊性の道を歩むということはどういうことなのかわからないと思います。私も目隠ししたまま知らぬ場所に連れて行かれ、家に戻ってきなさいと言われてひとり放り出されたかのような状態から現在まで歩んできました。溺れる者がわらをもつかむように、聖典や師の言葉を頼りにし、何が何かわからぬまま心に思いつくことを実行し、迷いと逡巡のうちに探求を繰り返し、20年近く経って、霊性の道を歩むということがどういうことか少しわかってきました。

 もし今霊性の道を歩もうという方がいたとして、私はその方に私と同じような苦労をして欲しくありません。霊性の道を歩むということがどういうことかを理解するには、聖典や神(の言葉)について考えるだけでなく、霊性の道を歩んだ人の実例から多くを学ぶことができます。

 霊性の道を歩んだ実例の一人としてラニマー女史がいます。


 この方は無名の方と言ってしまえば無名の方です。100ページにもわたるPDFなのですが、私はもう数回繰り返し読んでいます。さまざまな学びが得られます。

 彼女はサイババの所に通っていた方なのですが、頻繁に通っていたにも関わらずプラシャンティニラヤム(サイババの住んでいた場所)で部屋を与えられず、いつも他の人と同じ部屋に住んで過ごしていました。人はいろいろですから、他の人と部屋を共にすることは大変気苦労があります。あるとき彼女はそれが嫌でサイババに部屋を与えてくださいと頼みました。それに対してサイババはあなたには部屋は与えませんときっぱりと答えました。

 ラニマー女史は何か自分に落ち度があるためかと思ったのですが、サイババの言葉を聞いて納得しました。サイババが彼女に部屋を与えると、彼女が「私のもの」という感覚を育んでしまし、高い所へと向上すべき彼女を低いレベルに落としてしまうから部屋を与えないと言ったのです。「私」、「私のもの」という感覚をもつ人は霊性の道においてはレベルが低いのです。

 インドの方に直接話を聞いたことがあるのですが、インドでは暑くてもクーラーなどのない部屋で過ごさなくてはなりません。暑い、暑いと言いながら、神様どうかしてくださいといつも神に語りかけ、祈っているそうです。何かの困難があると皆神様、神様と神様のことを思い起こします。つまり、困難な中で「私」、「私のもの」という感覚ではなく、「神」、「神のもの」という感覚で生きているわけです。

 「私」、「私のもの」という感覚と、「神」、「神のもの」という感覚は地動説と天動説くらいに違います。自分中心か、神中心かということです。「神」、「神のもの」という感覚で生きることをバクティ(帰依、信愛)といいます。

 私などは、いつまでたっても人から批判されたり、家にいても思うとおりにいかないことがよくあります。腹が立ったり、欲求不満のようになってしまうのですが、そういう状況にあるからこそ、バクティ(帰依、信愛)というものが僅かなりともわかってきたのだろうと思っています。

 先ほどのラニマー女史のPDFには、他にも彼女のいろいろな体験が書かれています。私がサイババのことを本物だと思うのは、彼の帰依者にラニマー女史のようなすばらしい方がたくさんいるからです。師は弟子によって評価され得ます。