愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

正見(正しい物の見方)


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Camila



 日本の仏教には多くの宗派があり、私は自分の家の宗派の教えに従っているのですが、やはりお釈迦様の説かれた基本的な御教えにも関心があります。その代表的な御教えは八正道で、その最初に来るのが正見です。これは正しい物の見方の意味といわれています。

 この正見という言葉の意味を長いあいだ考えてきたのですが、私にはなかなか一筋縄には理解できないものでした。なぜならば、人にはほとんど自分で気づかない習慣化された物の見方というものがあるからです。果たしてそれが正しい物の見方かといえば、私はそれに疑問を持つのです。

 私たちは日々さまざまな感情を味わいますが、それらは、私たちの感じ方=物の見方を基準とした、是か非か、好きか嫌いかの判断です。私たちは、自分を条件づけしています。その条件に合うものが好ましいもので、条件に合わないものが好ましくないものです。感じ方そのものが幸福と苦悩の原因です。あたかも取り外すことのできない色眼鏡をかけているようなものです。私たちが四角い画面の中にテレビ番組を見るように、感じ方という枠組みの中で世界を見ます。

 できたら勉強は出来たほうがいい、お金も沢山稼いだほうがいい、あの人が憎い、あるいは彼はいい人だ、私にはこれが必要だ、人生はゆっくりのんびりすべきだ、などなど。多くが自分の感じ方に依っていますし、このようなことが価値観の多様性といわれます。

 正見は、その枠組みをすべて取り外したものだと思います。しかしこれは困難です。私は瞑想のときの状態がそれなのだと思います。無思考で思いがわいてこず、、平安に満たされている状態。そのとき私たちは、肉体の目ではなく、内なる目を働かせています。目を閉じて座っているときだけでなく、目を開いて活動の場に参加しても、そのような内的状態を保ち、物の価値判断がほとんど起こらない状態。すべてを愛し、すべてに慈悲の目を向けている状態。それが正見ではないかと思います。

 そのような状態を保っているとき、人は肉体の目で何を見ているのでしょうか? 私の目が濁っているせいなのかもしれませんが、私の目には世界が曖昧でぼっとしていて、夢のように見えます。世界の映像がただ目に映っています。そのような状態で穏やかに生きることもできますが、時に感情的になることもあります。目は内なる愛に浸されます。

※ "The real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes,  but in having new eyes."-Marcel Proust
 「発見への真の航海は、新しい風景を探すことではなく、新たな目をもつことからなります。」(マルセル・プルースト