愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

CとO(科学と霊性)

 前回取り上げた言葉「科学は「?」を積み重ねて進歩するが、仏法は「!」と気づかされて立ち止まる(仏光寺掲示板)」に関して、もう少し書いてみたいと思います。前回は?と!を対比しましたが、書いたあとに「立ち止まる」という箇所が気になったのです。

 科学と霊性の違いが「C」と「O」であらわされると聞いたことがあります。どのように違うかというと、Cは書き始めと書き終わりが離れている一方、Oは書き始めと書き終わりが一致しているという点です。つまり科学は人をどこかからどこか別のところへと連れて行くけれども、霊性は人を元の出発点に戻すとのこと。いい得て妙です。江戸時代の教育は論語などの素読が中心だったけれども、現代の教育は科学中心です。現代の科学的な教育を受けた人は、思考においても、生まれ故郷を離れるという点においても、自らを起源から遠ざける傾向があります。

 一方霊性は、仏光寺掲示板の言葉のように、前進し続ける人をふと立ち止まらせます。必ずしもずっと立ち止まったまま動かなくなるのではないのですが、これまでの私の人生はどうだったかとか、これから私はどう生きるべきかとか、そういうことをより考えるようになり、人生の方向が一時的にしろわかりにくくなってきます。少なくとも私はそうでした。

 そして今は、Oの字のように、元きたところに帰ればいいのだと思っています。それは一人ひとりが気づいたり感じたりするべきであり、ただ私はちょうど人生の半ばを過ぎたこともあってそう感じるのです。当たり前のことを当たり前に行う生活。自分と人を敬って共に歩む生活。物やお金、時間、食物を大切にする生活。そういうあり様のことです。新しい生き方は、私には今となっては必要ではないという思いがあります。

 気をつけるべきは、OはOであって・ではないということです。つまりどこかから出発して、さまざまに迷ったり、選択したり、ふらふら生きてきて、その結果として元に戻るということであって、・のように生まれてからずっと動きや自由のない生活をしろというわけではないこと。

 Oは出発点へ帰るということですが、さて出発点はどこだったか?という探求も霊性の領域に関すること。

 前回書いたように科学は分析します(つまりさまざまな物事を細かく分けて考えます)。一方霊性はそれとは異なり、すべて(あるいは多くの物事)を統合します。CとOはこの違いも意味しているでしょう。分析は頭の働きで、統合は心(ハート)の働きです。

 ある程度年をとったら、あたかも荷物をまとめるかのように、人生を振り返って、統合(経験や生活の整理)をする方が心休まるように思います。手荷物の多い旅行より少ない旅行のほうが快適であるように。